リモーネ

映画。小説。

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革命前夜  《1》

 
問題は、あたしが、彼のことを意識しているってことだと思う。
ただ、玄関のベルを押すだけで、みょうにキンチョウする。
美里ったら、早く、出て来てよ。
ああ、何やってんだか…。
それにしても、センスのいいおしゃれな建物だな。
ここ以外にも、いくつか、こういう別荘を所有しているって言ってたよなぁ。
美里って、けっこうお嬢様なんだ。
イタリアのブランドの洋服を、フツーに着ていて、しかも、似合っているってスゴイよね。
あの子は、顔も派手だけど、スタイルがいい。うん。とにかく脚がすごーく長いの。それに、洋服のセンスもいい。見せるコツを知っているって感じだなぁ…。
ダサイ格好しているあたしとは違うな。
なんでかなぁ。あたしって、何を着てもカッペくさいんだよね。
大学生になって、一人暮らしを始めてからも、実家にいた頃と同じように、真面目に生きている。
そんなあたしと、美里は、なんとなく仲良くなっていた。
でね、4ヶ月前のことなんだ。
大学からの帰り道、派手な車、ポルシェがスッと止まったの。美里の隣にいたあたしは、思わず身構えちゃったよ。ポルシェに乗っていた人が、芸能人みたいに派手なサングラスしてたんだもん。
その人は、窓から顔を出して、素っ気なく言ったの。

「美里…。オレに用って何?」
「あっ、兄貴、デートしよう。この子、悠美。どう? 3人で海に行こうよ」
「イ・ヤ・だ! オレは、おまえのお抱え運転手じゃないから」
「えーっ、何よ。あんたってケチくさい男ね!」
美里は、兄さんのことを、あんた…と呼び捨てる。その言い方が、やけにカッコ良かった。
「なんで、妹とデートしなくちゃならん訳?」
言いながら、チラッとあたしを見る。
サングラスを、ちょっと外した。
「こっちの頭良さそうな美人と二人でなら、デートしてもいいけど」

今思うと、あの瞬間、頭が、クラッとなっちゃったんだよね。

お世辞って、丸分かりなんだけど…。
あんなふうに、ストレートに美人って言われると、やっぱり嬉しいよ。
正直言って、自分が綺麗なのかどうかは、よく分からない。もしかしたら、美人なのかなぁって思うこともあるけど、でも、モテたことってない。
その理由は、ハッキリしている。
それは、あたしが堅物だから…。
真面目で、退屈。分厚い眼鏡なんてかけているしね…。
(コンタクトは、苦手だな。目が痛くなっちゃって涙が出るから…)
彼は、サッと手を振った。
「悪いけど、美里。オレ、これから、友達とメシ食う約束しているから、おまえの相手してらんない。んじゃ、そういうことで…」
話し方とか、仕草が、ニュアンスあるんだよね。
それに、眼が綺麗だった。切れ長で、ちょっと怖いって気もするけど、でも、最後に、ニッと笑ったときの口元が、いいんだ。
立ち去る様子を見送りながら、ふと気付くと、あたしは、こう呟いていた。
「あれが、ウワサのお兄さん?」
美里がよく言ってたな。4つ年上の医学部の兄貴は、女の趣味が悪いって。いつも、アホなオンナとばかり付き合ってるってね。
「そう。あれが兄貴。高志よ。兄貴、来るものは拒まずなんだよね。たまには断ればいいのにさ」
そして、こう言ったの。
「あたし、悠美みたいに、お利巧なオンナと付き合って欲しいよ。あんたって、ほんと、ちゃんと勉強できるじゃん。いつもクラスで一番。あんたってエライな」

美里は、よくこう言うの。
『あたしって、バカだから、あんたみたいな子が好きよって。でも、悠美、いい子だけどダサイよね。そこが、ザンネンだな。もったいないな』
美里のお兄さんの車が、スーッと右折して消えていく。
やっぱ、真っ赤なポルシェって、インパクトあるよね。
「あいつ、あの車、どっかの金持ちオンナの中古車、安く譲ってもらったんだよ。要領いい奴なんだよね。あいつって」
そう言って、美里は軽く笑った。
「高志のやつ。これからメシ食う友達って、オンナよ。オンナ。どーせ、ブスでバカな女に決まっているけどさ」

あたしは、その翌日、髪の毛の色を変えた。真っ黒から、ちょっと軽いブラウンにしてみた。
どうして、そんなことをしたのか、自分でもよく分からない。
そして、眼鏡を外して、コンタクトに変えた…。
でも、やっぱり、ダサイ雰囲気は変わらないんだ。とほほ。
別に好きになったとか恋していますとか、そんなんじゃないけど、もう一度、会いたいなぁとは思っていた。
だから、美里に誘われた時、「うん、行く!」と言っていたの。
ここは、南の小さな国。公用語は英語だけれど、現地人達の人種や民族は混在している。
あたしたちと同じアジア系の人達が住む小さな国家。
そこに、美里の父親の会社があるんだ。
ということで、美里は、子供の頃からこの国でよく遊んでいたらしい。

美里のパパの所有する、御立派な別荘。
あたしは、玄関の前で緊張していた。
そしたら、不意にドアが開いたの。
「ん…?」
ちょっと寝ぼけたような顔。
うわっ、上半身裸。そして、ハーフパンツ。
美里の兄さんは、思った以上に背が高かった。棒みたいにストンとした体型だけど、肩幅のあたりはガシッとしている。
で、その兄さんは、ボッサボサの頭を掻きながら言ったんだ。
「君、だれ?」
そう言われて、すっごいショックだった。
嘘っ! こ、この人、あたしのこと、覚えてないの? うそっ!
そりゃ、一度会っただけだけどさ。
あたしは、アナタの切れ長の瞳が新撰組リアンの榊原くんみたいだったことも覚えているし、サングラスがプラダだったってことも、よく覚えている。そして、車の中から聞こえてきた音楽が、『くるり』だったことも…。

一瞬、帰りたいな。
と、弱気になったんだけど、でも、帰る訳にはいかなかった。
この別荘に泊まるつもりで来たんだもの。よそに泊まるお金も持っていないよ。
「あっ、あの、あたし、美里の友達の悠美って言います。」
ああ、こんな簡単な日本語なのに喉が詰まるよ。
だって、この人が、ジーッと見下ろしているんだもん。
あたしの顔に、なんかついていますか?
(な、なにも、そんなふうに見なくてもいいじゃない…)
あたしは、ちょっと甲高い声で質問していた。
「あっ、あの! 美里、今日、ここで会う約束だったんです。で、あの、美里さんはいますか?」
そしたら、なんと。
彼は、あっさり言った。
「んー? うちのミーちゃんは、いない。今、バンコク」
「はぁ…?」
今、なんて言った?
バンコク?
ポカーンとしていたら、彼はだしぬけに笑った。
「あれ、聞いてないの? 今朝、バンコクを経由してここに来る予定だったんだけど、空港が閉鎖されたらしい」
「そ、そんなぁ~」
美里は、サバサバしていて、屈託なく笑う顔がすごく魅力的な女の子。
だけど、マイペースなんだよね。
夏休みの、この日。あたしと、この異国の別荘で過ごす約束していたのに、今、バンコクにいるなんて、どういうこと?
用事があるから、現地集合ねって言われた。あたしは、香港経由で、週一便しかない飛行機で、この島に着たんだ。
そして、来てみたら、肝心の美里がいないなんて…。
トランクを脇に置いたまま、玄関の入り口で呆然としていたら…。
「まっ、とりあえず、中に入りなよ」
そう言って、彼は、ふぁーーっと欠伸をした。

     □
                              
テーブルの向こうで、ぼーっと煙草を吸う高志さん。
ふと見ると、肩のところに大きな傷跡があった。6センチくらいの古傷。
「んー? これ? 気になる?」
やだ。あたしの視線、露骨だったかな。彼は、自分の右腕を突き出しながら言ったの。
「これは、ガキの頃、夏休みに、別荘に入ってきたドロボーに切られたんだ。ここ、政治的に不安定だからね。今は、まぁ、政権も安定しているようだけど、三ヶ月前にもデモ行進していたからね。昼間はいいけど、夜は危ないよ。女の子は一人で歩かないほうがいいよ」
「えっ?」
見た感じ、ここって、アジアの片隅の、長閑な南国なんだけどね…。
確かに、極端な貧富の差は感じる。
ここって、外国資本の会社が多い。アジア系だけど、いろんな民族と宗教が混在している。
リゾート地としての要素は低くて、あまり日本人が観光で訪れることもない。
そんな島で何をすればいいんだろう。
あたしは、なんか猛烈に居心地悪くなっちゃって、早口でこう尋ねていたの。
「美里は、いつ、到着するんですか?」
「さぁ、そういうことは、バンコク領事館にでも問い合わせてよ。今朝、あいつから国際電話はあったんだ。いつ帰れるか分からないらしい。君の面倒みてくれって言われた」
「うっ!」
ガシャン!
持っていた紅茶のカップを、うっかりテーブルの上に落としてしまった。
ひぇーん。スカートが紅茶で濡れた。ぬるかったんでヤケドにはならないけど…。
うぎゃーっ。最悪!!
あたしは、アタフタと拭きながら、聞いていく。
「あたし、ここに泊まるんですよ! それなのに、美里がいないなんて…」
「ああ、そうだね。大丈夫だよ。オレがいるから。泥棒も強盗も怖くないって。あっ、悠美ちゃん。君、大丈夫? びしょ濡れだよ。洗った方がいいんじゃない?」
そんなこと言われても、ここで洗えません!
ていうか、あなたとここで二人っきりっていうのが困るんです!
と、思っていたら、それを見透かすように言ったんだ。
「ミーちゃんの洋服、腐るほどあるから…。それに着替えなよ」
でも、あたし、ふっと気付いたの。
あらら、この人、先刻、あたしのこと悠美ちゃんって言ったよね? あたしは、改めて高志さんの顔をゆっくりと見つめ返す。
そしたら、彼は言ったの。
「オレ、別に着替えているところを覗いたりしないよ。ああ、そうだ。待っていて。洋服、持ってくるから。サイズは、ミーちゃんよか、ちょい小さめってとこだね。悠美ちゃん」
「あっ、あたしの名前…」
覚えてくれていたんですね。
そう言おうとした時、彼は、その切れ長の眼で見つめながら、ジッと、あたしの首筋を指差したの。
「君の銀のネックレスに、yumiって、刻んであるだろ? それ、彼氏からもらったの?」
「いいえ! これは美里がくれたんです! 道端でネーム入りのネックレスとか作っていたから、買ってくれたんです。この国で、これを買ったって言っていました」
市場の裏手の雑貨店で、銀細工のアクセサリーを作る店があるって言っていたわ。
「それ、確か、あなたも持っているはずですよ」
そしたら、彼は、ちょっと笑ったんだ。
屈託なく口を開けて、あたしを見ている。
「あーっ! そう言えば、オレももらった! ブレスだけど…。タカシって名前入りのやつ。ああ、あれね。確かにあるよ」
そう言って、彼は、2階へと消えた。んで、すっげぇ派手なワンピースを持ってきた。
なんつーか、それは、イケてる超美人じゃないと似合わないって感じなの。
アジアテイストの柄。うーん、そうだなぁ…。チャーリーズ・エンシェルの、中国美女の女優さんが着たら似合いそうって感じのもの。
あたしは、ビビッた。
こ、こんなの着てたら、広島の実家のお母さん、驚いちゃうよ。こういうのって、あたしの趣味じゃない。
でも、違うのを持ってきてくださいとは言いにくい。

ちょうど着替え終えた頃、高志さんが、ノックをしてリビングに入ってきた。
彼も、ちゃんと着替えている。どこにでも売っているような白いTシャツとジーンズ。
やっぱり、彼は、洋服がよく似合っていた。長い手足のバランスがいいの。
そして、彼は、あたしの目の前に立ったかと思うと、ニッーッと笑って腕を見せたの。
「見て。これ、君とお揃い」
うわー。ほんとだ。民芸品的なレトロなブレス。安物なんだけど、なんだかとてもオシャレに見える。
あたしは、趣味のいいこの部屋のカーテンや家具を見回しながら思ったなぁ。
きっと、こんなふうに、ステキな家で暮らしていると、自然に、センスが身につくのかもしれないなぁ…。
「この絵、ステキですね」
あたしは、一枚の水彩画に興味を持った。
すごくラフに描いてあるんだけど、その崩れ具合が何とも素敵。キャミソール姿の綺麗な女性が、椅子にもたれて天井を見上げている。肩紐が少し、たらーんとズレてる感じが、ちょっとエッチ…。画風は、どことなくレンピッカに似ている。
「これ、気に入った?」
いきなり、後ろから肩を叩かれて、びっくりした。
そして、次の瞬間、カーッとなった。
「な、なにやってんですか!」
し、信じられないっ! いきなり、首筋に触れた。イヤだ。この人ったら…。
まさかっ。
(そんなのイヤだ…。あたしは、そんなこと…)
胸の奥から、どかっと怒りが湧き上がる。
「やめてくださいっ!」
あたしは、思いっきり強く、彼を突き飛ばしていた。
「帰ります。あ、あたし…」
慌てて、自分のカバンをひっつかむ。でも、そんなあたしの腕をつかんで彼は言うの。
「ちょっと待て!」
今まで、感じたことがないような緊迫感。あたしは、その顔がこっちに迫ってくるのが恐かった。
「…ファスナー」
彼は、ひとこと。淡々と言う。
「ファスナー、開けたままでいいの?」
(えっ…?)
やだ。も、もしかして、この人は、あたしの背中のファスナーを、ごく単純に上げようとしていただけってこと?
そういえば、あたし、ファスナー、途中までしか上げていなかった。
(あたしったら、早とちりしちゃって。うわー。サイアク…)
なんかもう、恥ずかしくて、いたたまれない気持ちになっちゃって、頭、こんがらがっちゃって、カッコ悪い。こんな自分がイヤだ…。
「す、すみません、とにかく帰ります。洋服は、また後日、お返ししますから」
ああ、だけど、彼は、どこか、からかうようにこっちを見下ろしている。何を考えているんだろう。
あたしは、この人と二人きりだと何だか怖い。
でもね、彼は、不意に思い出したように言ったの。
「一人でバイクタクシーに乗ったら、君みたいな日本人は、ぼったくられるよ。国が認定している会社のタクシーを呼ばなきゃ。赤い色のタクシーがそうだよ」
そして、おどけたように、こう囁いた。
「君ね、意識し過ぎだよ。なんで、そこまで警戒するのかなぁ。オレってそんなに信用できないの?」
「…人見知りしちゃうだけです」
「ふうん」
彼は、それから、突然、クッと吹き出した。
「それから、ついでに言っとくけど、その洋服のリボンを結ぶ位置が前と後ろ、逆になっているよ。前で結ぶんだよ。それ」
もう、あたしは泣き出しそうになっていた。
それで、慌てて、リボンを結び直して、背中に手を回して、ファスナーを上げようとした時、トイレの水音が聞こえてきた。
誰か、他にもいるらしい。
な、何だろう?
ポカーンとしていたら、いきなり、ドドッと、ドアが開く音がして、そして、すごく唐突に、背の高い女の人が入ってきたの。
一瞬、モデルかと思った。
そりゃ、美里だって、背は高いけど、ちなみに、美里は167センチ。
でも、この女性は、ぜーったいに、173くらいある。
東洋的なストレートの黒髪と、高い鼻。大きな口。
いかにも、雑誌で、ヨーロッパ人向けの洋服のモデルをやっておりますって感じの人だ。
すっごく、プライトが高そうな彼女。
その人が、すごい勢いで、高志さんのことを睨んだかと思うと、バシッと頬を殴ったのだ。
「この娘は、誰?」
すごい迫力。
「この娘は、いったい何なの!」
よく見ると、高志さんよりも、年上って感じに見えた。27歳。ううん。もしかしたら、30歳くらいかもしれない。
「ごめん」
高志さんは、困ったように、何かを持て余したように彼女を見つめ返していく。
「前にも言ったように、オレ、あなたのことは愛してないから」
な、何だか意味深な会話だ。
嫌だ。あ、あたし、こんな痴話ゲンカの会話なんて聞きたくないよ。
「ごめん。志奈子さん。カン違いさせてごめん。だから、もう、うちに来ないでくれるかなぁ」
いつくしむ様な表情。そう呟く高志さんの横顔は、ほんとうにカッコ良かった。
「前にも言ったと思うけど。オレ、好きな娘がいるから、ごめん」
そう言って、スッと、ごく自然に、あたしの腰に腕をまわして引き寄せていく。
「オレ、この娘と付き合っているから」
えっ?
あたしは、何か言い返そうとする。
でも、彼は、視線で、あたしを制した。何も言うなって顔。そして、あたしの肩を抱きながらこう告げたの。
「オレ、悠美が好きなんだ」
でもね、その言葉を聞いた瞬間、彼女は逆上しちゃったの。
「うそよ!」
強い瞳で、あたしの顔を睨みつけたかと思うと、ただをこねる子供のように叫んだの。
「こんな娘…。こんなの、ただのガキじゃない。分かったわ、あなたの妹でしょ?」
彼女は、そうであって欲しいと願ったのかもしれない。
強い口調で言ったんだ。
「この娘が、あなたの好きな相手の訳がないわ! こんな娘、こんなブス!」
そして、怒鳴りながら、高志さんの方に詰め寄っていく。
「嘘じゃないよ」
高志さんは、厳かに言った。
「彼女は、トクベツ」
言いながら、あたしの頬を両手ではさみ込み、顔を斜めから近づけていく。
「好きだよ」
「……」
あたしは、目をパッチリ開けたまま、呆然としていたの。キスされる。うそっ。本気なの?
でも、その瞬間、彼女は気付いたの。
高志さんの、腕のブレス。
そして、あたしの首筋のネックレスにも気付いたみたい。
お揃いの、銀のアクセサリー。
それが、彼女の心をひどく傷つけたのかなぁ。彼女は、テーブルの上にあった紅茶のカップを握りしめると、高志さんの顔にぶっかけた。
「この、女たらしっ!」
そして、床に、カップをたたきつけていく。
「ロリコン! あんたなんて、こっちから別れてやる!」
ガッシャーンッ。
陶器が砕けた瞬間、破片が、彼の頬をかすめた。
だけど、彼女は、我を忘れたように怒鳴り散らして出ていってしまったの。
「分かったわよ。もういいわ。もう、あなたとは、これでおしまいよ!」

                   ◇

志奈子さんという人は、そのまま帰ってしまった。
アナタたち二人は、それで済んだのかもしれないけど…。
「だいじょうぶ? 悠美ちゃん?」
高志さんが、薬箱を持ってきて、自分のほっぺたの切り傷を消毒している。
「あなた、あの人を弄んだんですか?」
「いや、そんなことしていない」
高志さんは、少し腰を落とした姿勢のまま、動物の子供を見るような顔をして言った。
「そんなことより、君、顔色悪いよ。あいつは、君に対してブスなんて言ったけど、君は、キレイな顔しているよ」
「こ、こんな時に、お世辞、言わないでください! あたしの顔なんてどうでもいいんです!」
きっと、この人は、誰にでも、キレイと言うんだ。
きっと、きっと…。先刻の人にも、何度も言ったんだ。
その場面を想像すると、不思議な痛みが胸にきた。
ああ、なんでかなぁ。
そんなこと、想像するのがツライ。なぜなのかなぁ。
あたしは、少し目を逸らしながら言ったの。
「あの、先刻の人は、あなたの恋人ですか? 別れるために、あたしを利用したんですか?」
「恋人じゃないよ。毎年、この島に来て、ここにいる間、何回か、食事したり遊んだりしただけ。それだけ。利用したんじゃないよ。彼女が来たタイミングが、君が来たことと重なったから」
でも、彼は、とても正直に言った。
「でも、利用したのかもしれないな。ゴメン」
そして、彼は、まっすぐに呟いたの。
「彼女、親父の会社の通訳をやっている人なんだ。あの人のことは好きだった。友達として好きだったな。向こうもそうだと思ってた。でも、なぜか、彼女は、どんどんオレのことを違う意味で好きになっちゃったんだ」
彼は、ポツンと呟く。
ちょっと、困ったように、肩をすくめた。
「それに、あの人、もうすぐ結婚するんだよ。どこかの誰かと。オレ、何か誤解されるようなことをしたかなぁ? そりゃ、軽く頬にキスはしたことあるけど、それだけだよ」
なんか、イタズラを咎められた子供みたいに、ちょっと可愛く見えた。
「そういうのって、恋じゃないだろ。オレって、よくいい加減って言われるけど、なんでかな。オレって、やっぱり、サイアク?」
「わかんない」
あたしは、よく分からないけど、こう呟いていた。
「あの人、あなたのこと好きだったのよ。きっと、略奪愛とか、そういうのを期待していたんだと思うな」
「そんなこと言われても、オレは困る…」
と、彼は肩をすくめた。
「なんで、みんな、勝手にオレのこと好きになるのかな?」
聞き様によっては、すんごい傲慢なこと言っているわ。
でも、もしかしたら、ほんとに、この人は、自分の魅力とか分かってないのかもしれない。
それに、あまりにも、ストレートに無防備に、女の子と仲良く喋ったりするから誤解されるのかもしれない。
だって、その証拠に…。
あたしだって、カン違いしそうになったもん。
美人ってお世辞を、本気にして、一人で勝手にドキドキしている。
「とにかく、巻き込んで悪かったよ」
いきなり、そう言って立ち上がる。
「他にも、嘘をついた。最終のバスがもうないって言ったけど、オレ、バイクがあるから、君の行きたいところに送るよ。もうちょっと話したかったんだけどね。君がイヤならしょうがない」
どういうこと?
あたしは、答えを求めるように見つめていく。
すると、だしぬけに、あたしのことを指差して言ったの。
「君、すんごいダサイ眼鏡かけていたよね。眉毛もボサボサだったし。それに、髪型もヘンだったけど、でも、なんとなくキレイな子だなぁって思ったから」
「でも、あなたは、あたしのこと、覚えてなかったわ」
すると、彼は、すごーく間抜けなことを言ったの。
「いや、あの瞬間は、寝ぼけてから、分かんなかっただけだよ。オレ、寝起きは、ぼーっとしているから。でも、やっぱり、今日も見た瞬間に、キレイだと思った」
言いながら、彼は、困ったように首をかしげていく。
「正直に言うと、君って、とんちんかんでダサイよ。でも、キレイだよ」
高志さんは、おどけたように言う。
「よく分からないけど。君、面白いし。オレには美人に見えるよ。ほんとに」
さらさら言うから、ウソっぽく響く。なのに、ドキドキした。
(そ、そんなこと言われても、あたし、困るよ)
この人って、やっぱり何を考えてるのか、よく分からない。
ああ、混乱しちゃう。もう、ヤダヤダ。
もう、何なのよ。
誉めているのか、どーなのか。それさえも分からないよ!
「あ、あたしのこと、バカにしているんですか! もう帰ります! 送っていただかなくても結構です。タクシーをつかまえます」
ちょっと拗ねて、背中を向けた時、彼は、あたしの洋服をヒラヒラと握り締めて、シュパッと差し出してから尋ねてきた。
「ねぇ、ユーミン、こっち向いて。これ、洗濯機で洗えるの? それとも、ドライクリーニング?」
「あっ、あたしが、自分で洗います!」
こんなもの、この人に洗わせる訳にはいかない。
ていうか、何なのよ! あたしのこと、勝手にユーミンって呼んでいるし…。
なんて、軽い人なんだ!
「か、返してください!」
すると、彼は、ふっと、腕組みをしながら、こんなことを言ったのだ。
「そんな怖い顔するなよ」
そう言って、おかしそうに笑っている。
「ユーミンちゃん。変なことに巻き込んでゴメンね。お詫びに、今夜、メシ食いにいかない?」
「けっこうです」
もうこれ以上、からかわれるのってイヤだもん。
そしたら、彼は、一枚のメモを素早く手渡して囁いたの。
「ここ、知り合いのホテル。そこに泊まるといいよ。ミーちゃんが来たら、フロントに連絡する。んじゃ、気が向いたら、携帯に電話して。海に行こう」
立ち去るあたしに向かって、彼は言うの。とても魅力的な声でこう言ったの。
「ただし、ミーちゃん抜きで」
あたしは、廊下を歩きながら静かに言った。後ろを振り向くことなく、サヨウナラ。
あなたみたいな人、やっぱり苦手。
キライキライ、大キライ。
「それじゃ、帰ります。さようなら」

                 ◇


だって、そうでしょう。
あの人は、すごくカッコいいし、きっと、すごくモテるし、それに、それに…。
ほんとに、女ったらしなのかもしれない。
だから、こんなメモなんて、必要ない…。日本でも海外でも使える携帯。ここに電話をかけたなら、高志さんに繋がる。
でも、こんなもの、必要ない!
だから、紙はさっさと捨てた。
そして、彼自身のことも、さっさと忘れようと決意する。
でも。

できなかった。

どうしても、できなかった。

「あれ…?」
そして、その直後。
迎えのタクシーが来るのを待っている時、高志さんの別荘付近で不審な車を見つけた。このあたりは、裕福な外国人ばかりが住む区域。タクシーに乗る直前、あたしは、その現地人風の男の人の横顔を見た。二人組みだ。
彼らは、車の中から、高志さんの別荘を睨みつけている。
携帯で何か、確認した後、ふと、こちらを見た。確かに、運転席にいた人は、サングラス越しに、あたしを見ていた。
その車は黒塗りの高級車だった。
気になったけれど、目を合わせることが怖いので、さっと目を逸らす。
そして、ちょうどやって来た赤いタクシーに乗り込んでいった。
でもね、振り向くと、その男たちは、あたしの乗ったタクシーのあとを追ってきたの。
(うわー。どうしよう…。なんでー?)
不安になったあたしは、高志さんの携帯の番号をじっと見つめる。だめだ。電話をかけたくても、今、あたしはここで使える携帯を持っていない。
かけるとしたら、ホテルの部屋からかけるしかない。
着いたホテルは、客室50部屋という中級クラスのホテルだった。
だけど、設備は整っている。支配人が日本人で、日本人観光客が多く訪れるところらしい。

「樋口様からお聞きしております。美里お嬢様の御学友だそうですね…」
支配人の藤堂さんが、手厚く迎えてくれる。
「何か、お困りのことがあれば何でも言ってください。宿泊費用も食事も、すべて、樋口様が支払われるそうです」
ちなみに、このホテルの経営者は美里の叔父にあたる人らしい。
「あの…、藤堂さん…」
「はい、なんですか?」
さっきの車は、あたしがホテルの前で降りた後、スーっと立ち去っていったんだけど。
でも、気になる。
「ヘンなことを聞いてごめんなさい。この国って、治安はどうなんですか?」
「昼間は安全ですよ。市場の周辺にはスリが多いけれど、殺人事件などは、比較的、少ない方ですね。ただ、誘拐事件は多いですね。まぁ、でも、誘拐された子供も、殺されるようなことはめったにありません」
「誘拐?」
「ええ。外国人の子女などが狙われることが多いですね。使用人が手引きをして、誘拐犯を手助けすることもあります」
「えっ…」
そんな物騒な所だったなんて…。ああ、不安が募る。
「そんな顔をなさらないでください。ホテル内の警備は万全ですよ。それに、繰り返して言いますが、殺人事件そのものは、日本やアメリカよりもむしろ少ないんです。でも、不安ならば、あそこにいるチェンシーをあなたに付き添わせますよ」
支配人さんが紹介してくれた人は、フロントで働いていた。
「外に出たい時は、彼に付き添わせましょうか? 今夜から、さっそくどうですか?」
「いえ、今夜はけっこうです」
何時間も飛行機に乗って、夕方に、ようやくこの島に着いたものの、高志さんと出会って、ぐったり疲れたわ。
今夜は、ぐっすり眠りたい。
ということで、ルームサービスの食事をとって、熱いシャワーを浴びてからベッドに顔を伏せていく。
はぁー。なんだかヘンな気分。
超、平凡な人生を送ってきたのに、今は、異国のホテルで、ひとりで眠っている。
ホテルの外では、バイクの群れが絶え間なく走り続けている。
理由は、ここが南国だから。
ああやって、ドライブして、彼らは涼んでいるの。
家族5人が、ひとつのバイクに乗っているのを見た瞬間、「ワオ! まるで曲芸!」って思ったよ。
ここって、信号がないから、道を渡ることさえ難しい。
ああ、日本と何もかも違う。
早く、美里に会いたいなぁ。
翌日の朝、あたしは、付けっぱなしのテレビの声を聞いて、おやっと思った。
日本のテレビもちゃんと見られる。今、ちょうど、日本のニュースが流れている。
バンコクでは、政治的混乱が、まだ続いているらしい。
でも、そのニュースの後よ。
不意に、どこかで見たような顔写真が映ったの。
『大剣志奈子さん、29歳が、死体で発見された』
えっ…。あの顔はーーーーーっ!

そんな、嘘っ!
昨日、高志さんの別荘で見た、あの女の人だ!
樋口製薬の日本人の社員が、バレンタ共和国の首都レンカの水路にて水死。
酔って、誤って転落したのではないかのこと。最近、彼女は、同僚に悩みを打ち明けていたので、事故と自殺の両方の可能性があるとのことだった。
「こんなことって…」
ど、ど、どうしようーーーーーーっ!
あたしのせいだよ!
そうに決まっている。
あの人、高志さんにフラれたショックで、やけくそになって酔っ払って、あんなことに…。
『ロリコン! あんたなんて、こっちから別れてやる!』
あの声が、忘れられない。
あたしは、一応、もうすぐ二十歳なんだけど、よく女子高校生と間違われる。
きっと、それは、お化粧が薄いせいだろうなぁ。
あの志奈子さんに、最後にぶつけられた台詞を思い出して、あたしは複雑な気持ちになったよ。
(あたしが、彼女を追い詰めた…?)
あたしは、高志さんの恋人なんかじゃないのに…。そう勘違いしたまま、彼女は亡くなってしまった…。
あの人は、あたしを見て、絶望したのね。
ねぇ、あたしは、どうしたらいいの? 
今更、取り返しがつかないよ。
あのニュースを、高志さんは、もう知っているだろうか。




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