リモーネ

映画。小説。

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天使にかまれる

 
朝、起きてみると、台所に見知らぬ男がいた。
あたしは、ビクリとして尋ねた。アンタ、誰?
すると奴は、ジッとあたしを見ながら、いきなり牛乳瓶を突き出してこう言ったのだ。
「おまえ、これ飲む?」
「い、いらない!」
多分、こいつは姉貴のボーイフレンドだろう。
誰が、こんな奴の飲みかけのものなんて飲むもんか…。
不真面目な奴だなぁと、あたしは思った。
うちの姉貴は、大学に行きながら、結局のところ遊んでばかりいるのだ。
類は友を呼ぶとは、このことだ…。
冷蔵庫から取り出した新しいミルクを飲み干して、プイッと立ち去ろうとした。
その瞬間、男が真面目な顔をして言った。
「おい、坊主、そこ、ヒゲ!」
「はっ…?」
キョトンとしてしまう。
そしたら、男はクスクス笑って言う。
「白いヒゲだよ…。牛乳を飲んだせいだよ…」
「なっ…」
ヒゲのことも、もちろんショックだった。でもそれ以上に、このボーズという言葉に対して驚いていた。
(こいつ…、あたしのことを男の子と間違ってる!)
すぐさま間違いを訂正してやろうかと思った。でも、やめた。
あたしは、英語の勉強をするために2階の部屋へ戻っていく。
(んー…、でも、あたし、先刻の男、どこかで見たような気がするんだなぁ…。でも思い出せないなぁ…)
しかし、えんぴつを握りしめた瞬間、ハッと思い出したのだ。
“あっ…、あれは、うちの中学に来た新米教師だ!”
ああいう、たわけ者がセンセイなんてさぁ、世の中、どーかしてる!
それでなくても、学校にいる奴らって馬鹿ばっかりなのにさぁ…。
「あ~あ、学校なんてつまんないなぁ…」
あたしは、ベットに寝転がったまま溜め息をついてしまう。
『学校なんて大嫌い…』
今すぐ、ドラエモンの四次元ポケットの中に放り込んでやりたい…。
『みんな、くたばっちまえばいいのに』
心の中で呟きながら、早く、イギリスに行きたいなぁと思った。

                          ◇

あたしが特にキライだと思うのは、幼稚っぽいイタズラをする奴だ。
(また…、こんなものを入れてる!)
下駄箱にデン! と、汚れたゾウキンが詰め込まれているのを見た瞬間、ああまたかぁ…と思った。
これって、一種のイジメかもしれない。
特大デブのタケシは、ほぼ毎日、こんなふうにして、いやがらせをするのだ。
中学に入ってからも、こいつと同じクラスになるなんてついてない…。
「ぎゃあっ! タケシの奴、またこんなことしているの! ねぇ、詠美、先生に言いなよ!あの馬鹿、一回殴ってもらわなくちゃ治んないよ」
と、レーコが言う。
レーコは、すっごく脚が綺麗でパリコレのモデルみたいに垢抜けた顔をしている。
このクソ面白くない学校の中で、唯一カッコいい女の子なのだ。
あたしは唇を尖らせながら言った。
「あの馬鹿、殴るんだったら、自分でやってやる!」
「でもさぁー、ここまでしつこく虐めるってことはさぁ、あんたに気があるんじゃないの?」
と、レーコ。
「あー、やめて! 気持ち悪い! そんなこと想像しただけでゲロ吐いちゃう!」
あんな奴に好かれるなんて最大の屈辱だ! それなら、まだ嫌われている方がいい。
“馬鹿とはかかわりたくない…”
毎日毎日、こんな所に通わなくちゃいけないなんてゴーモンだ…。
義務教育じゃなかったら、とっくの昔にやめてるのになぁって思う。

そんなふうに思っていたら、あの例の牛乳男が来たのだ。
こともあろうか、あたしの大好きな英語の教科書を持って。
予想した通り、あいつは、あたしがクラスにいることにはまるで気付いていなかった。
「えっと…、とりあえず、このCDの声と一緒に本を読んでもらおうかな」
と、あいつが言う。
でも、流れてきたのは、あたしの知らないミュージシャンの歌声だった。
「あーっ、違う。こ、これは、なつかしいスティングの歌だった。わりぃ、わりぃ…」
みんなが、どっと笑う。
(あいつ、やっぱり、アホだわ…)
とてもじゃないけど、高村先生なんて呼ぶ気がしない。仕方ないから呼ぶけどさ…。
「センセェ! 気分がわるいから保健室に行きます!」
ささっと、立ち去ろうとする。
あいつは、ちょっと間を置いてから、ハッとしたように怒鳴ったのだ。
「おい、ボーズ! ちょっと待て!」
「なっ…!」
なにがボーズよ。確かに、今日もブルージーンズの半パンツはいてるけどさ、よく見りゃ、ちゃんと女の子だって分かるでしょ! 馬鹿!
「おまえ、なんで、そんなに元気なのに保健室に行くんだよ…?」
「…そんなの勝手でしょ! 行きたいから行くんです!」
今まで、あたしが保健室に行くのを止めた先生なんていなかった。
それは、あたしがすごく成績のいい子だからだ。
それに、『ちょっと変わってる』と思われているので、みんな深くあたしのことを追求したりしないのだ。
(あたしは我が道を行くもんね…)
うちのお姉ちゃんのボーイフレンドだからって、あたしを引き止める権利なんてない。
なのに奴は言ったのだ。
「おまえ、そんな頑なな態度を取っていると、女の子にモテないぞ」
「なっ…」
なに言ってんのよ!
(信じられないっ!)
今まで我慢して保ってきたオツムの線が、プチッと切れる音がした。
と、同時に、クラスのみんなが大声で笑い出したのだ。
“ボーズ、ボーズ”
レーコまでもが、ニヤニヤ笑いながら、その言葉を口の中で呟いている。
「どうした…? 森高、ションベン我慢してるのかぁ?」
何を勘違いしたのか、奴があたしに向かって言う。
するとタケシが手を上げながら、うれしそーに言った。
「センセェ、こいつ、オチンチンないから立ちションできませーん!」
そしたら、奴は、あたしを眺めながら笑って言ったのだ。
「へーえ、そう…。おまえ性転換したの?」
「…なっ!」
あまりにもアホらしくて・・反論する気にもならない。
「ホラホラ、とにかく、いつまでも立ってないで席について教科書を読みなさい」
「………」
クソクソッ。調子が狂うったらありゃしない。
いつもなら、ちゃんとサボってたのに…。
もうこれ以上ドツボにはまりたくなかったので、あたしは、そのままおとなしく座って、教科書を読み出していた。

                           ◇

「ぐっ、ぐやじーーーーーっ!」
家に帰ってからも、まだ腹が立っていた。
うちのお姉ちゃんて、前からアホだと思っていた。
あんな男と付き合うなんて、救い難い馬鹿だわ…。
ひとこと文句を言ってやろうと思って、部屋を覗いたとき、電話をしている声が聞こえてきたのだ。
「やったじゃん。あの変わり者が、あんたの授業、ちゃんと受けたんだぁ。良かったじゃない…。うん、そうよ。まともに相手をしちゃダメよ。そう、その調子でがんばってね。バーイ!」
もちろん、それだけで、あたしには分かった。今日のあいつのアレが、わざとだってことに…。
「お姉ちゃんっ!」
あたしは、だらしない格好で寝転がっているお姉ちゃんに向かって問い詰めていく。
すると、シャラッとして言ったのだ。
「そうよ。あたし、教えてあげたの。うちの妹は、先生泣かせの名人だから、フツーの方法で接したらダメだってね」
「へんなことしないでよ!」
ムカッとして怒鳴っていた。
「放っといてよ! 先生の言うことなんて聞かなくても、あたし、ちゃんとやれるんだから!」
「あんたさぁ…」
お姉ちゃんは、不意に真面目な顔をしてこう言った。
「あんた、世の中で自分がいちばんエライと思ってんでしょ?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・」
そんなことはない…。そう言い返そうとしてやめた。
一番エライとは思ってないけど、あいつらよりはエライと思っているのは事実だからだ。
そんなあたしを、お姉ちゃんは哀れむような目で見ている。
「あんた、さようなら魔法使い、っていう映画、観たことある? あんたにソックリよ」
そして、捨て台詞のように言った。
「言っとくけど、あんたガキよ。なんでもできると思っていたら大間違いなんだからね」
「お姉ちゃん、あたし、子供じゃないわよ…」
だって、もう何だってできるからだ。
なのに、お姉ちゃんは、そのエッチっぽい胸を揺らしながら、せせら笑った。
「まぁ、そう思っているうちが花よね…」
その言葉が、不思議なくらいリアルに響く…。ような気がした。
『大人…?』
でも、大人になるって何だろう…。
よく分からないや…。
あたしは、クッションを抱きしめながら、部屋で昔に流行った曲を聞いていた。
オムニバスのCDの中に入っていた曲。
ベットショップボーイズ。
『哀しみの天使』って、なんかいい曲だな…。
そんなことを思いながら、一緒に歌った。

                              ◇

その翌日のことだった。あたしの渾名は、“ボーズ”になっていたのだ。
さっそく、クラスの女の子たちが、あたしに話しかけてくる。
「森高さぁーん! 今日はスカートなの? 珍しいねっ」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
あたしは、めんどくさいから返事をしなかった。
そのまま、スーッと屋上へ向かって歩いていく。
今までは、みんなと同じ格好をするのがイヤで、髪型も服装も変えていた。
別に、目立ちたかったわけじゃない。
ただ、何となくイヤなのだ。みんなで、ダラダラと馴れ合うのが…。
なんか、そういうのってたまんない。
“苦手だなぁ…”
あたしは、芸能人とかに興味はないし、サッカー選手だとか、ミュージシャンとか追いかけたいとは思わない。
ただ、ひとりでイギリスに行きたいなぁって思う。
あそこに行けば、逢えるかもしれない。
昔、絵本で見たような天使やサンタクロースが、そこらへんにいて、フツーに暮らしているような気がするのだ。
なんつっても、あのストイックな感じがいいのよね…。
『きっと、あたし、生まれる前は、イギリス人だったんだわ・・』
根拠なんてないけど、そう思う。

日本は、雑音が多過ぎるよ…。
なんで、みんな、あたしをそっとしておいてくれないんだろう…。
屋上にひとりでいるあたしを見つけたルルが、駆け寄ってきたのだ。ルルは、隣のクラスの女の子だ。いつも、唇にグロスをべっとりつけている。
「ねぇねぇ、聞いたわよぉ。あんた、あの高村センセェに丸め込まれたんだってぇ?」
馴れ馴れしく、あたしの肩を触っている。
「くやしーのよ。あたしもサボろうとしたら止められてさぁ。あいつ、人の良さそーな顔してるけど、イヤな奴よねぇ。ムカつくから、これ、パクッてきちゃった…」
「ふうん…」
また、人のものを盗ったのかぁ…。
ルルは、得意そうに、その腕時計を太陽の光に向かってかざしている。
『別に、あんたが何をしようと勝手だけどね。いちいち、それをあたしに見せないでよ』
かかわりたくないのに。かかわりたくないのに…。
その時計は、うちのお姉ちゃんが買ったものだったので、言わずにはいられなかった。
「それ、高いのよ」
「へーえ、ほんと? ラッキー!」
職員室からくすねてきた煙草を吸いながら、ヘラヘラと笑っている。
ルルは、死ぬまで、こんなふうにして生きるのかなぁ…。
(やりたい放題にやっちゃってさ…)
もしかすると、あたしも、この子と同類だって、みんなから思われているのかもしれない。
「ルル、その時計、高村センセェに返してよ。それ、大切なものなんだよ」
「やーよ! なんで、あんた、センセェの味方すんのよ! 好きなのぉ!」
「・・バカなこと言わないでよ!」
もう、なんで、みんな、そういう発想で考えるんだろう…。
「好きじゃないけど、返してあげたいのよ! ただ、それだけよ! だから、返して!」
「やーよっ!」
ルルが、ムキになって時計を抱え込もうとした。あたしは、ルルからそれを奪い返そうと必死になる。
そして、ついに殴り合いになった。ルルが、あたしの顔を思いっきり、ギリッと強く引っ掻いたのだ。
「いたぁっ、なにすんのよっ!」
その瞬間、あたしは、強くルルの背中を突き飛ばしていた。あっと、思った直後、ルルはフェンスで頭を打って、そして、そのまま動かなくなっていた。

                               ◇

「理由を言いなさい、理由を…」
あたしは、教頭に何度も怒鳴られたけど、言わなかった。
もちろん、頭を打って、軽い脳しんとーを起こしたルルも、時計のことは言わなかった。
(自分が盗んだなんて言えるわけがない…)
結局、あたしたちは、授業をサボって、煙草を吸い、あげくの果てにケンカをしたということになり、すごーく叱られたのだ。
「あたし、煙草なんて吸ってませんっ!」
何度も言ったけれど、信じてはもらえなかった。それどころか、言い訳するなと言って、乱暴に右頬をバシッと殴られたのだ。
「…いたいっ」
あのオヤジ、人の顔を何だと思っているのよ!
(顔中がヒリヒリする…)
職員室から出て、ひとりで歩いているうちに、本当にもう何もかもがイヤになっていた。
『あんた、世の中で自分がいちばんエライと思ってんでしょ?』
お姉ちゃんの言葉が、頭の中でグルグル回って消えない…。
すっかり暗くなっていた。
「おまえ、まだこんな所にいたのかよ…?」
戸締りの点検をしにきたらしい…。
高村が、教室に入ってきた。
そして、あたしを教室から追い出しながら言う。
「おまえさぁ、アホだなぁ。ケンカしたんたって・・? バレないように、もっと上手にやれよなぁ…。だいたい、何で、あいつとケンカなんかしたんだよ?」
なぁんにも知らない高村。
少し肩をすくめながら呟いている。
「まぁ、言いたくないならいいけどさ…」
「・・・・・・・・・・」
あたしは黙ったままポケットから時計を出してくる。
そして、高村の目の前に突き出した。
「えっ…?」
一瞬、高村の瞳の色がガラッと変わった。
『これ、おまえが盗んだのかよぉ・・・』
そう言って、また殴られるかもしれないと思って素早く目を閉じた。
でも、高村はぶったりしなかった。
その代わり、あたしの頬をガシッと片手でつかんで、持ち上げながら言う。
「あ~あ、可哀想になぁ…。女の子なのに、こんなに顔を腫らしちゃってさぁ」
「・・・・・・・・・」
あたしは、瞳を開いた。
「やっと認めたわね・・。あたしが女だって」
「…そんなの、最初から知ってたよ」
そう呟く高村の顔は、すごくいいなぁと思った。
「なぁ、おまえさぁ…、なんで、この時計のこと教頭に言わないんだよ?」
「言いたくないから…」
多分、こういうところが変わっているんだ。あたしは、自分でも変な奴だなぁと思う。
「そういうことは、言えばいいのに…」
高村は、シニカルに笑う。

「じゃぁ、さようなら…」
あたしは、高村に手を振りながら走り出してゆく。
でも、先刻は、すごーく目の前に顔があって…。




あんなふうに、見るんだもん。
男の人のああいう顔って、はじめて見た…。


もしかすると、いきなり強引にキスされるのかと思ったのだ。
それじゃぁ、まるで、あたしの大嫌いな少女マンガみたい…。
『高村センセェが、ロリコンでなくて、ほんとうに良かった・・』
校門を出るまでは、そう思ってた。
なのに、またひとりになった瞬間、すごく不安になって、泣きたくなった。
こういう気分のことを、あの国ではこう言うんだ。
“天使にかまれる”って…。

                                 ◇

その次の日、みんながあたしを見ているような気がしてイヤだった。
顔には、デッカイ絆創膏。
あたしのケンカのことを、みんながウワサしている…。
(もう、こっち見ないでよ…)
どうせ、みんな、あたしのことをすんごい変人とかって言ってんだろうな…。
そう思うと、ムシャクシャして哀しかった。
そんな時、あのタケシが来たのだ。
「なぁ、おまえ、あの篠崎ルルとすっげぇ大ゲンカしたんだってなぁ・・」
「そこ、どいてよ、馬鹿!」
あたしは、タケシを睨みつけていく。
『それにしても、あたしは、どうして、こんなに攻撃的なんだろう…』
うまくいかない。
いろんなことが…。
(どうしたらいいんだろう…。どうしたらいいんだろう…)
そんなあたしに向かって、タケシが言った。
「おまえ、何だよ! なんでいつも、そんなに威張ってんだよ! 何様だと思ってんだよ! そんなにおまえはエライのかよぉ! おい、森高! 返事しろよ!」
「・・・・・・・・・・」
困るよ…。
だって、自分でもよく分からないんだもん…。
何でこんなふうになっちゃったのか…。
いつも、他の人たちとの会話をないがしろにしてきた罰だ…。
『ばっかみたい…』
いつも、そんなふうな顔をして生きてきた。
あたしは、まるで、この世界で一人暮らしをしているような態度をとってきたけど。
でも、本当のことを言うと…。
『あたし、ほんとは、みんなと仲良くなりたいのに・・いつも反対の態度ばかりとってしまう…。どうしてなんだろう…』
いつも自分のことを、馬鹿みたいって思っている。ほんとうは…。
(ほんとうは・・・・・)

「…も、もりたか?」
ビックリしたように、タケシが、じーっとあたしを見ている。
「えっ…、あっ、おまえ…」
「・・・・・・・・・・」
あたしは黙ったまま、すんごい形相で泣いていた。もう涙がとまらない。
廊下の真ん中で、そのままポロポロ泣いていた。
みんなが遠まきにして、こっちを見ている。
たくさんの人の中に、高村先生がいるのが見える。
でも、ただ見ていた。
あいつには、きっとわかっているんだろう…。
『なんで、あたしが泣いているのか…』
理由さえ解ってもらえたら、それでいいのだ。
別に、チヤホヤされなくてもいいし、過剰に守られなくてもいい。
そうなのだ…。
ただ、理解してもらっていたら、それでいい。それだけのことなんだから…。

「も、森高さんっ!」
突然、クラスの女の子の一人が目の前に飛び出してきた。
「あ、あっちに行こう! タケシのことなんて気にしちゃダメよ…。あの子、口が悪いからさぁ…」
言いながら、あたしの腕をグイグイ引いていく。
「あのね、あの子ね、森高さんに相手にされなくて怒ってるだけなのよ、ねっ…」
「えっ…?」
ビックリした…。
だって、いつのまにか、クラスの女の子たちが、あたしを取り囲んでいたからだ。
そして、口々に言う。
「森高さんさぁ、ルルのこと、ぶっ飛ばしてくれたんでしょ! あたし、それ聞いて、スカっとしたぁ!」
「そうよ! あたしも、あの子にお気に入りのスニーカー盗られて悔しい思いしたことあるのよ・・」
「そうそう、あたしもおんなじ…」
みんなは、そう言って、まるで、あたしを励ますかのように笑っている。
『おどろいた…』
まさか、こんなふうに迎えられるなんて思ってもみなかったからだ…。
今まで、あたしは、本当に何もわかっていなかったみたい…。
『人の言葉を必要としていた…』
言葉は、たくさん、溢れていたのに…。
それなのに、自分から無視していたんだ。
あたしは、今まで…。
ずっと、ずっと。
人のことを馬鹿にしてきたから、見えなかったのかもしれない。
『ちょっとしたきっかけ…』
これさえあれば、何かが変わるのに…。
そのことに気付こうともしなかったなんて・・。
ほんとに、あたしはアホだ…。
「ねぇ、森高さん、その傷、だいじょうぶ?」
「うん…、ぜんぜん平気」
そう言って、今まで人に見せたことのないような顔をして笑っていた。

                                    ◇

だからといって、そんなに急に生き方を変えられる訳でもない…。
「おはよう…」
レーコが、いつもの如く、だるそうに欠伸をして言う。
「ねぇ、サボろーか? 高村の英語・・」
「うん、ダルイよねー・・。授業なんてサボっちゃおうかなぁ」
言いながら、下駄箱のフタを開けていく。
「あっ…」
そのとき、それが、パッと目に入ってきてハッとなった。
「なぁーに? また、タケシのいやがらせぇ?」
と、レーコ。
「ううん…。違う、違うよ」
思わずあたしは、プッと吹き出していた。

昨日はゴメン…。
by タケシ


ゲタ箱に、メッセージとデッカイ絆創膏の箱が入っていたから、笑っちゃった。
『あいつ、やることが可愛いじゃんかよぉ…』
だからってさぁ、あいつのこと、いきなり愛してしまうようなこともないけどさ…。
でも…。
今度、目が合ったら、ニッと笑ってみようかなぁと思った。
そして、大ブタっていう渾名を、デーブ君に変えてみよう…。
そんなことを思いながら、絆創膏をポッケに入れた。






※この短編は、昔、ワタシが雑誌に掲載したものです。加筆訂正ました。


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長編小説  《革命前夜》

 

長編小説




革命前夜





続きは後日更新します










 

革命前夜  《1》

 
問題は、あたしが、彼のことを意識しているってことだと思う。
ただ、玄関のベルを押すだけで、みょうにキンチョウする。
美里ったら、早く、出て来てよ。
ああ、何やってんだか…。
それにしても、センスのいいおしゃれな建物だな。
ここ以外にも、いくつか、こういう別荘を所有しているって言ってたよなぁ。
美里って、けっこうお嬢様なんだ。
イタリアのブランドの洋服を、フツーに着ていて、しかも、似合っているってスゴイよね。
あの子は、顔も派手だけど、スタイルがいい。うん。とにかく脚がすごーく長いの。それに、洋服のセンスもいい。見せるコツを知っているって感じだなぁ…。
ダサイ格好しているあたしとは違うな。
なんでかなぁ。あたしって、何を着てもカッペくさいんだよね。
大学生になって、一人暮らしを始めてからも、実家にいた頃と同じように、真面目に生きている。
そんなあたしと、美里は、なんとなく仲良くなっていた。
でね、4ヶ月前のことなんだ。
大学からの帰り道、派手な車、ポルシェがスッと止まったの。美里の隣にいたあたしは、思わず身構えちゃったよ。ポルシェに乗っていた人が、芸能人みたいに派手なサングラスしてたんだもん。
その人は、窓から顔を出して、素っ気なく言ったの。

「美里…。オレに用って何?」
「あっ、兄貴、デートしよう。この子、悠美。どう? 3人で海に行こうよ」
「イ・ヤ・だ! オレは、おまえのお抱え運転手じゃないから」
「えーっ、何よ。あんたってケチくさい男ね!」
美里は、兄さんのことを、あんた…と呼び捨てる。その言い方が、やけにカッコ良かった。
「なんで、妹とデートしなくちゃならん訳?」
言いながら、チラッとあたしを見る。
サングラスを、ちょっと外した。
「こっちの頭良さそうな美人と二人でなら、デートしてもいいけど」

今思うと、あの瞬間、頭が、クラッとなっちゃったんだよね。

お世辞って、丸分かりなんだけど…。
あんなふうに、ストレートに美人って言われると、やっぱり嬉しいよ。
正直言って、自分が綺麗なのかどうかは、よく分からない。もしかしたら、美人なのかなぁって思うこともあるけど、でも、モテたことってない。
その理由は、ハッキリしている。
それは、あたしが堅物だから…。
真面目で、退屈。分厚い眼鏡なんてかけているしね…。
(コンタクトは、苦手だな。目が痛くなっちゃって涙が出るから…)
彼は、サッと手を振った。
「悪いけど、美里。オレ、これから、友達とメシ食う約束しているから、おまえの相手してらんない。んじゃ、そういうことで…」
話し方とか、仕草が、ニュアンスあるんだよね。
それに、眼が綺麗だった。切れ長で、ちょっと怖いって気もするけど、でも、最後に、ニッと笑ったときの口元が、いいんだ。
立ち去る様子を見送りながら、ふと気付くと、あたしは、こう呟いていた。
「あれが、ウワサのお兄さん?」
美里がよく言ってたな。4つ年上の医学部の兄貴は、女の趣味が悪いって。いつも、アホなオンナとばかり付き合ってるってね。
「そう。あれが兄貴。高志よ。兄貴、来るものは拒まずなんだよね。たまには断ればいいのにさ」
そして、こう言ったの。
「あたし、悠美みたいに、お利巧なオンナと付き合って欲しいよ。あんたって、ほんと、ちゃんと勉強できるじゃん。いつもクラスで一番。あんたってエライな」

美里は、よくこう言うの。
『あたしって、バカだから、あんたみたいな子が好きよって。でも、悠美、いい子だけどダサイよね。そこが、ザンネンだな。もったいないな』
美里のお兄さんの車が、スーッと右折して消えていく。
やっぱ、真っ赤なポルシェって、インパクトあるよね。
「あいつ、あの車、どっかの金持ちオンナの中古車、安く譲ってもらったんだよ。要領いい奴なんだよね。あいつって」
そう言って、美里は軽く笑った。
「高志のやつ。これからメシ食う友達って、オンナよ。オンナ。どーせ、ブスでバカな女に決まっているけどさ」

あたしは、その翌日、髪の毛の色を変えた。真っ黒から、ちょっと軽いブラウンにしてみた。
どうして、そんなことをしたのか、自分でもよく分からない。
そして、眼鏡を外して、コンタクトに変えた…。
でも、やっぱり、ダサイ雰囲気は変わらないんだ。とほほ。
別に好きになったとか恋していますとか、そんなんじゃないけど、もう一度、会いたいなぁとは思っていた。
だから、美里に誘われた時、「うん、行く!」と言っていたの。
ここは、南の小さな国。公用語は英語だけれど、現地人達の人種や民族は混在している。
あたしたちと同じアジア系の人達が住む小さな国家。
そこに、美里の父親の会社があるんだ。
ということで、美里は、子供の頃からこの国でよく遊んでいたらしい。

美里のパパの所有する、御立派な別荘。
あたしは、玄関の前で緊張していた。
そしたら、不意にドアが開いたの。
「ん…?」
ちょっと寝ぼけたような顔。
うわっ、上半身裸。そして、ハーフパンツ。
美里の兄さんは、思った以上に背が高かった。棒みたいにストンとした体型だけど、肩幅のあたりはガシッとしている。
で、その兄さんは、ボッサボサの頭を掻きながら言ったんだ。
「君、だれ?」
そう言われて、すっごいショックだった。
嘘っ! こ、この人、あたしのこと、覚えてないの? うそっ!
そりゃ、一度会っただけだけどさ。
あたしは、アナタの切れ長の瞳が新撰組リアンの榊原くんみたいだったことも覚えているし、サングラスがプラダだったってことも、よく覚えている。そして、車の中から聞こえてきた音楽が、『くるり』だったことも…。

一瞬、帰りたいな。
と、弱気になったんだけど、でも、帰る訳にはいかなかった。
この別荘に泊まるつもりで来たんだもの。よそに泊まるお金も持っていないよ。
「あっ、あの、あたし、美里の友達の悠美って言います。」
ああ、こんな簡単な日本語なのに喉が詰まるよ。
だって、この人が、ジーッと見下ろしているんだもん。
あたしの顔に、なんかついていますか?
(な、なにも、そんなふうに見なくてもいいじゃない…)
あたしは、ちょっと甲高い声で質問していた。
「あっ、あの! 美里、今日、ここで会う約束だったんです。で、あの、美里さんはいますか?」
そしたら、なんと。
彼は、あっさり言った。
「んー? うちのミーちゃんは、いない。今、バンコク」
「はぁ…?」
今、なんて言った?
バンコク?
ポカーンとしていたら、彼はだしぬけに笑った。
「あれ、聞いてないの? 今朝、バンコクを経由してここに来る予定だったんだけど、空港が閉鎖されたらしい」
「そ、そんなぁ~」
美里は、サバサバしていて、屈託なく笑う顔がすごく魅力的な女の子。
だけど、マイペースなんだよね。
夏休みの、この日。あたしと、この異国の別荘で過ごす約束していたのに、今、バンコクにいるなんて、どういうこと?
用事があるから、現地集合ねって言われた。あたしは、香港経由で、週一便しかない飛行機で、この島に着たんだ。
そして、来てみたら、肝心の美里がいないなんて…。
トランクを脇に置いたまま、玄関の入り口で呆然としていたら…。
「まっ、とりあえず、中に入りなよ」
そう言って、彼は、ふぁーーっと欠伸をした。

     □
                              
テーブルの向こうで、ぼーっと煙草を吸う高志さん。
ふと見ると、肩のところに大きな傷跡があった。6センチくらいの古傷。
「んー? これ? 気になる?」
やだ。あたしの視線、露骨だったかな。彼は、自分の右腕を突き出しながら言ったの。
「これは、ガキの頃、夏休みに、別荘に入ってきたドロボーに切られたんだ。ここ、政治的に不安定だからね。今は、まぁ、政権も安定しているようだけど、三ヶ月前にもデモ行進していたからね。昼間はいいけど、夜は危ないよ。女の子は一人で歩かないほうがいいよ」
「えっ?」
見た感じ、ここって、アジアの片隅の、長閑な南国なんだけどね…。
確かに、極端な貧富の差は感じる。
ここって、外国資本の会社が多い。アジア系だけど、いろんな民族と宗教が混在している。
リゾート地としての要素は低くて、あまり日本人が観光で訪れることもない。
そんな島で何をすればいいんだろう。
あたしは、なんか猛烈に居心地悪くなっちゃって、早口でこう尋ねていたの。
「美里は、いつ、到着するんですか?」
「さぁ、そういうことは、バンコク領事館にでも問い合わせてよ。今朝、あいつから国際電話はあったんだ。いつ帰れるか分からないらしい。君の面倒みてくれって言われた」
「うっ!」
ガシャン!
持っていた紅茶のカップを、うっかりテーブルの上に落としてしまった。
ひぇーん。スカートが紅茶で濡れた。ぬるかったんでヤケドにはならないけど…。
うぎゃーっ。最悪!!
あたしは、アタフタと拭きながら、聞いていく。
「あたし、ここに泊まるんですよ! それなのに、美里がいないなんて…」
「ああ、そうだね。大丈夫だよ。オレがいるから。泥棒も強盗も怖くないって。あっ、悠美ちゃん。君、大丈夫? びしょ濡れだよ。洗った方がいいんじゃない?」
そんなこと言われても、ここで洗えません!
ていうか、あなたとここで二人っきりっていうのが困るんです!
と、思っていたら、それを見透かすように言ったんだ。
「ミーちゃんの洋服、腐るほどあるから…。それに着替えなよ」
でも、あたし、ふっと気付いたの。
あらら、この人、先刻、あたしのこと悠美ちゃんって言ったよね? あたしは、改めて高志さんの顔をゆっくりと見つめ返す。
そしたら、彼は言ったの。
「オレ、別に着替えているところを覗いたりしないよ。ああ、そうだ。待っていて。洋服、持ってくるから。サイズは、ミーちゃんよか、ちょい小さめってとこだね。悠美ちゃん」
「あっ、あたしの名前…」
覚えてくれていたんですね。
そう言おうとした時、彼は、その切れ長の眼で見つめながら、ジッと、あたしの首筋を指差したの。
「君の銀のネックレスに、yumiって、刻んであるだろ? それ、彼氏からもらったの?」
「いいえ! これは美里がくれたんです! 道端でネーム入りのネックレスとか作っていたから、買ってくれたんです。この国で、これを買ったって言っていました」
市場の裏手の雑貨店で、銀細工のアクセサリーを作る店があるって言っていたわ。
「それ、確か、あなたも持っているはずですよ」
そしたら、彼は、ちょっと笑ったんだ。
屈託なく口を開けて、あたしを見ている。
「あーっ! そう言えば、オレももらった! ブレスだけど…。タカシって名前入りのやつ。ああ、あれね。確かにあるよ」
そう言って、彼は、2階へと消えた。んで、すっげぇ派手なワンピースを持ってきた。
なんつーか、それは、イケてる超美人じゃないと似合わないって感じなの。
アジアテイストの柄。うーん、そうだなぁ…。チャーリーズ・エンシェルの、中国美女の女優さんが着たら似合いそうって感じのもの。
あたしは、ビビッた。
こ、こんなの着てたら、広島の実家のお母さん、驚いちゃうよ。こういうのって、あたしの趣味じゃない。
でも、違うのを持ってきてくださいとは言いにくい。

ちょうど着替え終えた頃、高志さんが、ノックをしてリビングに入ってきた。
彼も、ちゃんと着替えている。どこにでも売っているような白いTシャツとジーンズ。
やっぱり、彼は、洋服がよく似合っていた。長い手足のバランスがいいの。
そして、彼は、あたしの目の前に立ったかと思うと、ニッーッと笑って腕を見せたの。
「見て。これ、君とお揃い」
うわー。ほんとだ。民芸品的なレトロなブレス。安物なんだけど、なんだかとてもオシャレに見える。
あたしは、趣味のいいこの部屋のカーテンや家具を見回しながら思ったなぁ。
きっと、こんなふうに、ステキな家で暮らしていると、自然に、センスが身につくのかもしれないなぁ…。
「この絵、ステキですね」
あたしは、一枚の水彩画に興味を持った。
すごくラフに描いてあるんだけど、その崩れ具合が何とも素敵。キャミソール姿の綺麗な女性が、椅子にもたれて天井を見上げている。肩紐が少し、たらーんとズレてる感じが、ちょっとエッチ…。画風は、どことなくレンピッカに似ている。
「これ、気に入った?」
いきなり、後ろから肩を叩かれて、びっくりした。
そして、次の瞬間、カーッとなった。
「な、なにやってんですか!」
し、信じられないっ! いきなり、首筋に触れた。イヤだ。この人ったら…。
まさかっ。
(そんなのイヤだ…。あたしは、そんなこと…)
胸の奥から、どかっと怒りが湧き上がる。
「やめてくださいっ!」
あたしは、思いっきり強く、彼を突き飛ばしていた。
「帰ります。あ、あたし…」
慌てて、自分のカバンをひっつかむ。でも、そんなあたしの腕をつかんで彼は言うの。
「ちょっと待て!」
今まで、感じたことがないような緊迫感。あたしは、その顔がこっちに迫ってくるのが恐かった。
「…ファスナー」
彼は、ひとこと。淡々と言う。
「ファスナー、開けたままでいいの?」
(えっ…?)
やだ。も、もしかして、この人は、あたしの背中のファスナーを、ごく単純に上げようとしていただけってこと?
そういえば、あたし、ファスナー、途中までしか上げていなかった。
(あたしったら、早とちりしちゃって。うわー。サイアク…)
なんかもう、恥ずかしくて、いたたまれない気持ちになっちゃって、頭、こんがらがっちゃって、カッコ悪い。こんな自分がイヤだ…。
「す、すみません、とにかく帰ります。洋服は、また後日、お返ししますから」
ああ、だけど、彼は、どこか、からかうようにこっちを見下ろしている。何を考えているんだろう。
あたしは、この人と二人きりだと何だか怖い。
でもね、彼は、不意に思い出したように言ったの。
「一人でバイクタクシーに乗ったら、君みたいな日本人は、ぼったくられるよ。国が認定している会社のタクシーを呼ばなきゃ。赤い色のタクシーがそうだよ」
そして、おどけたように、こう囁いた。
「君ね、意識し過ぎだよ。なんで、そこまで警戒するのかなぁ。オレってそんなに信用できないの?」
「…人見知りしちゃうだけです」
「ふうん」
彼は、それから、突然、クッと吹き出した。
「それから、ついでに言っとくけど、その洋服のリボンを結ぶ位置が前と後ろ、逆になっているよ。前で結ぶんだよ。それ」
もう、あたしは泣き出しそうになっていた。
それで、慌てて、リボンを結び直して、背中に手を回して、ファスナーを上げようとした時、トイレの水音が聞こえてきた。
誰か、他にもいるらしい。
な、何だろう?
ポカーンとしていたら、いきなり、ドドッと、ドアが開く音がして、そして、すごく唐突に、背の高い女の人が入ってきたの。
一瞬、モデルかと思った。
そりゃ、美里だって、背は高いけど、ちなみに、美里は167センチ。
でも、この女性は、ぜーったいに、173くらいある。
東洋的なストレートの黒髪と、高い鼻。大きな口。
いかにも、雑誌で、ヨーロッパ人向けの洋服のモデルをやっておりますって感じの人だ。
すっごく、プライトが高そうな彼女。
その人が、すごい勢いで、高志さんのことを睨んだかと思うと、バシッと頬を殴ったのだ。
「この娘は、誰?」
すごい迫力。
「この娘は、いったい何なの!」
よく見ると、高志さんよりも、年上って感じに見えた。27歳。ううん。もしかしたら、30歳くらいかもしれない。
「ごめん」
高志さんは、困ったように、何かを持て余したように彼女を見つめ返していく。
「前にも言ったように、オレ、あなたのことは愛してないから」
な、何だか意味深な会話だ。
嫌だ。あ、あたし、こんな痴話ゲンカの会話なんて聞きたくないよ。
「ごめん。志奈子さん。カン違いさせてごめん。だから、もう、うちに来ないでくれるかなぁ」
いつくしむ様な表情。そう呟く高志さんの横顔は、ほんとうにカッコ良かった。
「前にも言ったと思うけど。オレ、好きな娘がいるから、ごめん」
そう言って、スッと、ごく自然に、あたしの腰に腕をまわして引き寄せていく。
「オレ、この娘と付き合っているから」
えっ?
あたしは、何か言い返そうとする。
でも、彼は、視線で、あたしを制した。何も言うなって顔。そして、あたしの肩を抱きながらこう告げたの。
「オレ、悠美が好きなんだ」
でもね、その言葉を聞いた瞬間、彼女は逆上しちゃったの。
「うそよ!」
強い瞳で、あたしの顔を睨みつけたかと思うと、ただをこねる子供のように叫んだの。
「こんな娘…。こんなの、ただのガキじゃない。分かったわ、あなたの妹でしょ?」
彼女は、そうであって欲しいと願ったのかもしれない。
強い口調で言ったんだ。
「この娘が、あなたの好きな相手の訳がないわ! こんな娘、こんなブス!」
そして、怒鳴りながら、高志さんの方に詰め寄っていく。
「嘘じゃないよ」
高志さんは、厳かに言った。
「彼女は、トクベツ」
言いながら、あたしの頬を両手ではさみ込み、顔を斜めから近づけていく。
「好きだよ」
「……」
あたしは、目をパッチリ開けたまま、呆然としていたの。キスされる。うそっ。本気なの?
でも、その瞬間、彼女は気付いたの。
高志さんの、腕のブレス。
そして、あたしの首筋のネックレスにも気付いたみたい。
お揃いの、銀のアクセサリー。
それが、彼女の心をひどく傷つけたのかなぁ。彼女は、テーブルの上にあった紅茶のカップを握りしめると、高志さんの顔にぶっかけた。
「この、女たらしっ!」
そして、床に、カップをたたきつけていく。
「ロリコン! あんたなんて、こっちから別れてやる!」
ガッシャーンッ。
陶器が砕けた瞬間、破片が、彼の頬をかすめた。
だけど、彼女は、我を忘れたように怒鳴り散らして出ていってしまったの。
「分かったわよ。もういいわ。もう、あなたとは、これでおしまいよ!」

                   ◇

志奈子さんという人は、そのまま帰ってしまった。
アナタたち二人は、それで済んだのかもしれないけど…。
「だいじょうぶ? 悠美ちゃん?」
高志さんが、薬箱を持ってきて、自分のほっぺたの切り傷を消毒している。
「あなた、あの人を弄んだんですか?」
「いや、そんなことしていない」
高志さんは、少し腰を落とした姿勢のまま、動物の子供を見るような顔をして言った。
「そんなことより、君、顔色悪いよ。あいつは、君に対してブスなんて言ったけど、君は、キレイな顔しているよ」
「こ、こんな時に、お世辞、言わないでください! あたしの顔なんてどうでもいいんです!」
きっと、この人は、誰にでも、キレイと言うんだ。
きっと、きっと…。先刻の人にも、何度も言ったんだ。
その場面を想像すると、不思議な痛みが胸にきた。
ああ、なんでかなぁ。
そんなこと、想像するのがツライ。なぜなのかなぁ。
あたしは、少し目を逸らしながら言ったの。
「あの、先刻の人は、あなたの恋人ですか? 別れるために、あたしを利用したんですか?」
「恋人じゃないよ。毎年、この島に来て、ここにいる間、何回か、食事したり遊んだりしただけ。それだけ。利用したんじゃないよ。彼女が来たタイミングが、君が来たことと重なったから」
でも、彼は、とても正直に言った。
「でも、利用したのかもしれないな。ゴメン」
そして、彼は、まっすぐに呟いたの。
「彼女、親父の会社の通訳をやっている人なんだ。あの人のことは好きだった。友達として好きだったな。向こうもそうだと思ってた。でも、なぜか、彼女は、どんどんオレのことを違う意味で好きになっちゃったんだ」
彼は、ポツンと呟く。
ちょっと、困ったように、肩をすくめた。
「それに、あの人、もうすぐ結婚するんだよ。どこかの誰かと。オレ、何か誤解されるようなことをしたかなぁ? そりゃ、軽く頬にキスはしたことあるけど、それだけだよ」
なんか、イタズラを咎められた子供みたいに、ちょっと可愛く見えた。
「そういうのって、恋じゃないだろ。オレって、よくいい加減って言われるけど、なんでかな。オレって、やっぱり、サイアク?」
「わかんない」
あたしは、よく分からないけど、こう呟いていた。
「あの人、あなたのこと好きだったのよ。きっと、略奪愛とか、そういうのを期待していたんだと思うな」
「そんなこと言われても、オレは困る…」
と、彼は肩をすくめた。
「なんで、みんな、勝手にオレのこと好きになるのかな?」
聞き様によっては、すんごい傲慢なこと言っているわ。
でも、もしかしたら、ほんとに、この人は、自分の魅力とか分かってないのかもしれない。
それに、あまりにも、ストレートに無防備に、女の子と仲良く喋ったりするから誤解されるのかもしれない。
だって、その証拠に…。
あたしだって、カン違いしそうになったもん。
美人ってお世辞を、本気にして、一人で勝手にドキドキしている。
「とにかく、巻き込んで悪かったよ」
いきなり、そう言って立ち上がる。
「他にも、嘘をついた。最終のバスがもうないって言ったけど、オレ、バイクがあるから、君の行きたいところに送るよ。もうちょっと話したかったんだけどね。君がイヤならしょうがない」
どういうこと?
あたしは、答えを求めるように見つめていく。
すると、だしぬけに、あたしのことを指差して言ったの。
「君、すんごいダサイ眼鏡かけていたよね。眉毛もボサボサだったし。それに、髪型もヘンだったけど、でも、なんとなくキレイな子だなぁって思ったから」
「でも、あなたは、あたしのこと、覚えてなかったわ」
すると、彼は、すごーく間抜けなことを言ったの。
「いや、あの瞬間は、寝ぼけてから、分かんなかっただけだよ。オレ、寝起きは、ぼーっとしているから。でも、やっぱり、今日も見た瞬間に、キレイだと思った」
言いながら、彼は、困ったように首をかしげていく。
「正直に言うと、君って、とんちんかんでダサイよ。でも、キレイだよ」
高志さんは、おどけたように言う。
「よく分からないけど。君、面白いし。オレには美人に見えるよ。ほんとに」
さらさら言うから、ウソっぽく響く。なのに、ドキドキした。
(そ、そんなこと言われても、あたし、困るよ)
この人って、やっぱり何を考えてるのか、よく分からない。
ああ、混乱しちゃう。もう、ヤダヤダ。
もう、何なのよ。
誉めているのか、どーなのか。それさえも分からないよ!
「あ、あたしのこと、バカにしているんですか! もう帰ります! 送っていただかなくても結構です。タクシーをつかまえます」
ちょっと拗ねて、背中を向けた時、彼は、あたしの洋服をヒラヒラと握り締めて、シュパッと差し出してから尋ねてきた。
「ねぇ、ユーミン、こっち向いて。これ、洗濯機で洗えるの? それとも、ドライクリーニング?」
「あっ、あたしが、自分で洗います!」
こんなもの、この人に洗わせる訳にはいかない。
ていうか、何なのよ! あたしのこと、勝手にユーミンって呼んでいるし…。
なんて、軽い人なんだ!
「か、返してください!」
すると、彼は、ふっと、腕組みをしながら、こんなことを言ったのだ。
「そんな怖い顔するなよ」
そう言って、おかしそうに笑っている。
「ユーミンちゃん。変なことに巻き込んでゴメンね。お詫びに、今夜、メシ食いにいかない?」
「けっこうです」
もうこれ以上、からかわれるのってイヤだもん。
そしたら、彼は、一枚のメモを素早く手渡して囁いたの。
「ここ、知り合いのホテル。そこに泊まるといいよ。ミーちゃんが来たら、フロントに連絡する。んじゃ、気が向いたら、携帯に電話して。海に行こう」
立ち去るあたしに向かって、彼は言うの。とても魅力的な声でこう言ったの。
「ただし、ミーちゃん抜きで」
あたしは、廊下を歩きながら静かに言った。後ろを振り向くことなく、サヨウナラ。
あなたみたいな人、やっぱり苦手。
キライキライ、大キライ。
「それじゃ、帰ります。さようなら」

                 ◇


だって、そうでしょう。
あの人は、すごくカッコいいし、きっと、すごくモテるし、それに、それに…。
ほんとに、女ったらしなのかもしれない。
だから、こんなメモなんて、必要ない…。日本でも海外でも使える携帯。ここに電話をかけたなら、高志さんに繋がる。
でも、こんなもの、必要ない!
だから、紙はさっさと捨てた。
そして、彼自身のことも、さっさと忘れようと決意する。
でも。

できなかった。

どうしても、できなかった。

「あれ…?」
そして、その直後。
迎えのタクシーが来るのを待っている時、高志さんの別荘付近で不審な車を見つけた。このあたりは、裕福な外国人ばかりが住む区域。タクシーに乗る直前、あたしは、その現地人風の男の人の横顔を見た。二人組みだ。
彼らは、車の中から、高志さんの別荘を睨みつけている。
携帯で何か、確認した後、ふと、こちらを見た。確かに、運転席にいた人は、サングラス越しに、あたしを見ていた。
その車は黒塗りの高級車だった。
気になったけれど、目を合わせることが怖いので、さっと目を逸らす。
そして、ちょうどやって来た赤いタクシーに乗り込んでいった。
でもね、振り向くと、その男たちは、あたしの乗ったタクシーのあとを追ってきたの。
(うわー。どうしよう…。なんでー?)
不安になったあたしは、高志さんの携帯の番号をじっと見つめる。だめだ。電話をかけたくても、今、あたしはここで使える携帯を持っていない。
かけるとしたら、ホテルの部屋からかけるしかない。
着いたホテルは、客室50部屋という中級クラスのホテルだった。
だけど、設備は整っている。支配人が日本人で、日本人観光客が多く訪れるところらしい。

「樋口様からお聞きしております。美里お嬢様の御学友だそうですね…」
支配人の藤堂さんが、手厚く迎えてくれる。
「何か、お困りのことがあれば何でも言ってください。宿泊費用も食事も、すべて、樋口様が支払われるそうです」
ちなみに、このホテルの経営者は美里の叔父にあたる人らしい。
「あの…、藤堂さん…」
「はい、なんですか?」
さっきの車は、あたしがホテルの前で降りた後、スーっと立ち去っていったんだけど。
でも、気になる。
「ヘンなことを聞いてごめんなさい。この国って、治安はどうなんですか?」
「昼間は安全ですよ。市場の周辺にはスリが多いけれど、殺人事件などは、比較的、少ない方ですね。ただ、誘拐事件は多いですね。まぁ、でも、誘拐された子供も、殺されるようなことはめったにありません」
「誘拐?」
「ええ。外国人の子女などが狙われることが多いですね。使用人が手引きをして、誘拐犯を手助けすることもあります」
「えっ…」
そんな物騒な所だったなんて…。ああ、不安が募る。
「そんな顔をなさらないでください。ホテル内の警備は万全ですよ。それに、繰り返して言いますが、殺人事件そのものは、日本やアメリカよりもむしろ少ないんです。でも、不安ならば、あそこにいるチェンシーをあなたに付き添わせますよ」
支配人さんが紹介してくれた人は、フロントで働いていた。
「外に出たい時は、彼に付き添わせましょうか? 今夜から、さっそくどうですか?」
「いえ、今夜はけっこうです」
何時間も飛行機に乗って、夕方に、ようやくこの島に着いたものの、高志さんと出会って、ぐったり疲れたわ。
今夜は、ぐっすり眠りたい。
ということで、ルームサービスの食事をとって、熱いシャワーを浴びてからベッドに顔を伏せていく。
はぁー。なんだかヘンな気分。
超、平凡な人生を送ってきたのに、今は、異国のホテルで、ひとりで眠っている。
ホテルの外では、バイクの群れが絶え間なく走り続けている。
理由は、ここが南国だから。
ああやって、ドライブして、彼らは涼んでいるの。
家族5人が、ひとつのバイクに乗っているのを見た瞬間、「ワオ! まるで曲芸!」って思ったよ。
ここって、信号がないから、道を渡ることさえ難しい。
ああ、日本と何もかも違う。
早く、美里に会いたいなぁ。
翌日の朝、あたしは、付けっぱなしのテレビの声を聞いて、おやっと思った。
日本のテレビもちゃんと見られる。今、ちょうど、日本のニュースが流れている。
バンコクでは、政治的混乱が、まだ続いているらしい。
でも、そのニュースの後よ。
不意に、どこかで見たような顔写真が映ったの。
『大剣志奈子さん、29歳が、死体で発見された』
えっ…。あの顔はーーーーーっ!

そんな、嘘っ!
昨日、高志さんの別荘で見た、あの女の人だ!
樋口製薬の日本人の社員が、バレンタ共和国の首都レンカの水路にて水死。
酔って、誤って転落したのではないかのこと。最近、彼女は、同僚に悩みを打ち明けていたので、事故と自殺の両方の可能性があるとのことだった。
「こんなことって…」
ど、ど、どうしようーーーーーーっ!
あたしのせいだよ!
そうに決まっている。
あの人、高志さんにフラれたショックで、やけくそになって酔っ払って、あんなことに…。
『ロリコン! あんたなんて、こっちから別れてやる!』
あの声が、忘れられない。
あたしは、一応、もうすぐ二十歳なんだけど、よく女子高校生と間違われる。
きっと、それは、お化粧が薄いせいだろうなぁ。
あの志奈子さんに、最後にぶつけられた台詞を思い出して、あたしは複雑な気持ちになったよ。
(あたしが、彼女を追い詰めた…?)
あたしは、高志さんの恋人なんかじゃないのに…。そう勘違いしたまま、彼女は亡くなってしまった…。
あの人は、あたしを見て、絶望したのね。
ねぇ、あたしは、どうしたらいいの? 
今更、取り返しがつかないよ。
あのニュースを、高志さんは、もう知っているだろうか。




NEXT








 

革命前夜 《2》

 
朝から、あたしは、ため息をついた。
ホテルで朝食を食べたようと思ったけれど、そんなの無理!
やっぱり、志奈子さんのことが気になって仕方がない。
「やっぱり、会いに行こう」
あたしは、高志さんの別荘に、再び向かうことにしたの。借りていた、美里の服も返さなきゃいけないしね。
ということで、午後から、タクシーで、高志さんの別荘へと向かった。
あたしってば、昨日と同じ顔つき。同じ心境で、玄関に立っている。
『どうしよう。緊張する…』
あたしは、インターフォンを押したけれど、誰も出てこない。
留守なのかな?
もしかして、どこかに出かけているのかなぁと思って、諦めて出直すことにしたら…。
「はぁい…、どなた?」
まったく知らない人が出てきた。清楚で健康的な美人!
褐色の肌の若い女性。この国の人だと思う。メイドさんなのかな? そういう感じの服装だった。
彼女は、とても綺麗な英語を話す。
「あなたは、どちらさまですか?」
尋ねられたので、あたしは、おずおずと言った。
「あの、あたしは、高志さんの妹の美里さんの友人です。お借りした洋服を返しに来ました」
あたしは、その女性の全身をさっと眺めていく。何だか、ヘンなんだよなぁ。
そう思って見ていたら、なんと、彼女は、洋服のボタンが一個ずつズレているのよね。慌てて、洋服を着たら、こうなりましたっていう感じ。
彼女が振り向いて、大声で、高志さんを呼ぶと、彼が出てきた。
「ああっ! ユーミン! 来たんだぁ。ようこそ。さぁどうぞ」
愛想笑い。白い歯がピカーっと目立つ。
でもね、あたしは、見逃さなかった。口紅がね、口の周りについている。
この人、何やってんのよ!
あたしは、カーっと怒りを感じて、思わず怒鳴っていた。
「高志さん! あなた、ちょっとは責任を感じたらどうですか!」
「責任?」
キョトンとしている。
「まぁ、立ち話もなんだから、中に入れば?」
「いいえ、結構です!」
あたしは、その腕を乱暴に振り払う。
「あたしは、この洋服を返しに来ただけです!」
「ねぇ、何を怒っているの? もしかして、昨日のこと?」
「怒っているんじゃありません。呆れているんです! 志奈子さん、あなたのせいで亡くなったんですよ! あなた、それなのに平気なんですか!」
「えっ…?」
高志さんは、そこで初めて、シリアスな顔になった。
「何それ? 志奈子さんが死んだ? マジで? なんで死んだの?」
「それは、もちろん、決まっています! 失恋のショックで…。水路に落ちたそうです」
「信じられない…」
高志さんは、天井見上げて呟く。
あたしは、ニュースで聞いたことを簡単に説明していく。
でも、彼は、あまり動揺することもなかった。
「ああいうタイプの人は、他人を殺すことはあっても、自殺はないと思うけどなぁ…。何それ? 詳しいことは分かる?」
「あ、あたしだって知りません。この国の警察に問い合わせたらどうですか? ていうか、おたくの社員さんなら、お父さまたちがよく御存知のはずですよ」
「そうだね。親父に問い合わせてみるよ…。ふうん、あの志奈子さんが死ぬなんて、意外だなぁ」
ボーっと、呑気な口調。あたしは、イラっとなって叫んでいた。
「あなた、悲しくないんですか! 人事みたいな顔しないでくださいよ! あたし…。あたしのせいで、彼女が亡くなったのかもしれないと思うと…」
泣きそうになる。
でも、それなのに、彼は、ちょっと無責任な顔つきで言うの。
「まぁ、あの人は酔って、道端で倒れたことも何度かあるから、いつかはこうなると思ったなぁ~ でも、あの人の婚約者はショックだろうなぁ」
「婚約者?」
どういうこと?
「同じ日本人の社員だよ。親に言われて、お見合いしたって言ってた。日本にいる人だそうだけどね。彼女は、まだ結婚はしたくないって、よく言っていたなぁ」
彼は、単なる不幸な事故として捉えている。
ああ、何だろう。イライラ。イライラ。あたしの中で、何かが降り積もっていく。
「どうして、そんなふうに、平気な顔なんですか! あの人は、あなたに失恋したまま死んだんですよ! そんなことって、切ないと思いませんか!」
「思わないよ」
不意に、彼は、ツンという感じの醒めた顔つきになった。
「あの人は、俺を好きなんじゃなくて、誰かと恋する自分を好きなだけだよ。そういう人っているじゃない?」
「亡くなった人のことを、そんなふうに言うなんて…」
あたしは、ずっと、責めるように高志さんを見つめている。ああ、どうしてなんだろう。自分でもよく分からない。
それを指摘するかのように、高志さんが言った。
「じゃぁ、どう言えばいいの? 君は、どういう台詞が聞きたいの? 俺が、あの人にしてあげられることって何? あの人を好きなフリをすれば良かったの? そういうのが優しさってやつなの?」
「そ、そんなこと言っていません…」
あたしは、ぎゅっと一瞬、唇を噛み締める。
「あ、あなたは、きっと、思わせぶりなことを、あの人にも言ったはずです…。綺麗とか、そんなことを誰にでも言う人だから…」
あたしは、室内を清掃している美人を見た。
スレンダーな体型。山猫を思わせるような女の人だ。
「例えば、あの人にだって、あなたは言うんでしょう?」
「ん…? センナに? ああ、言うよ。彼女、この街で一番のべっぴんさん。特に、脚が綺麗だよね」
そう言って、じっと、センナの後姿を見る、その顔つきや視線の絞り方が、不埒!
もう、こんな人、ヤダ!
「とにかく、あたしは、不真面目な人が苦手なんです! だから、あたし…」
何が言いたいのかな?
あたし、ヘンなんだよね。
苛々している本当の理由って何なんだろう。さっきから、センナというメイドさんのことが気になって仕方がない。
彼と彼女は、どういう関係なんだろう。絶対に、ここで、このメイドさんとキスをしていた…。それは、あたしにも分かる。
その彼が、軽薄な感じの愛想笑いを浮かべながら、あたしの肩に腕をまわしてきた。
「ねぇ、ユーミン。ごきげん直しなよ」
「だ、だれが、ユーミンなんですか! 何なんですか! その言い方!」
高志さんと一緒にいると、理路整然としたあたしの生活がぐにゃりと不安定に崩れそうになる。
「ちょっと、トイレを貸してください!」
本当は、特に、用事もないのだけれど、相手から離れるために嘘をついていた。
そして、樋口家の別荘のトイレに入ったけれど、トイレットペーパーが切れかかっていることに気付いたの。
だから、棚からトイレットペーパーを取り出そうと、収納扉を開くと、隅っこの方に、何かが転がっているのが見えた。小さな丸いリング。
「これって、指輪?」
かなり古い金の指輪だった。宝石も何もついていないけれど、幅の広い指輪だ。
でも、あまりにもレトロで、これを、あのお洒落な美里がはめているとも思えないし、高志さんが、これをはめるようにも思えない。
何なのだろう? とにかく、これは、置いてあるというよりも、何かのはずみで、指から外れて落ちたという感じ。
(あっ……)
あたしって、どうして、こんなに記憶力がいいんだろう。頭の中で、こないだの光景がフラッシュバックした。
この指輪と同じ材質の同じようにレトロなネックレスを、あの日、志奈子さんは首からぶら下げていた。
あの人は、民族衣装風のワンピースを着ていたので、その古代風のネックレスもよく似合っていたんだけれど、彼女が彼を平手打ちした、あの日、あの瞬間は、この指輪を、はめていなかった…。
もしかしたら、本人も気付かないうちに、スルッと抜け落ちてしまったのかもしれない。
あたしと同じように、トイレットペーパーを取り替えようとして、この棚を探っている間に、落として、それで、そのまま…。
亡くなってしまった!
「うわっ、これ、きっと、志奈子さんのものなんだ…!」
それなら、亡くなった志奈子さんに返さなくちゃ。
そう思って、その指輪を自分の洋服のポケットに入れて、トイレから出ると、思いがけない人物が、居間に入ってソファに座っていた。
二人組みの、現地の男の人だ。
「高志さん? あの、お客さんですか?」
「んー。客っていうか、警察。これから、詳しく、志奈子さんの殺人事件に関して事情聴取されることになったから、行ってくるよ」
地元の警察官二人は、何か、顔を見合わせて囁き合っている。穏やかとは言い難い、この空気。
「えっ……」
それって、どういうこと?

殺人事件という言葉を聞いて、あたしは、いてもたってもいられなくなっていた。
でも、高志さんは、そのまま警察署へと向かうことになったし、メイドのセンナは、にっこり微笑んで呟いたの。
「わたくしも、今日は帰ります。あなたも、お帰りください」
そりゃそうよね。
あたしが、この別荘に残っても仕方がない。だけど、ホテルに帰ったところでやることはなかった。
だから、一人で市内の市場を観光することにする。
まるで田舎の広島の夏祭りのような、人混みの中、売り買いする声が行き交っている。怒鳴り合うかのように、オバちゃん同士が言い合って値段を決めている。
定価というものがないのね。
値切って、どこまで値段が下がるのか。
試しに、あたしも買い物をすることにしてみる。
食料品や衣料品のエリアを抜けると、あたり一面、貴金属を売るエリアへと辿り着いた。
どの店も似たような金属類を置いている。
粗末な建物の中に、いくつもの店舗が入っている。
日本人の感覚から言うと、店というよりも露店に近い。
いちばんお洒落な売り子のいる店の前で、しばらく、宝石を眺めていた。
だけど、さっき見たような古い指輪は、どこにもなかった。
ああいうのって、何千年も前に造られたものに違いない。もう一度、あの指輪を確かめようかと思ったその時、肩を叩かれたの。
「カバンが開いていますよ」
「えっ?」
振り向いて、すぐさま手元を見る。ヤバイ! あたしは相手が言っている意味を悟った。
あたしが脇に置いていたサマンサタバサのバックのチャックが全開している!
「うそっ! やだーーーーーーっ!」
信じられないことに、カバンの中に入れていたはずの財布が消えていた。
「この市場では、よくあることですよ。特に、あなたのような外国人の若い女の子はね、狙われやすいですね」
そう言って、肩をすくめた男の人は、よく見たら、ホテルの従業員のチェンシーだった。
「あの、どうして、ここに?」
もう、仕事は終わったのだろうか?
「今日は休みなんです。だから、食料を買いに来ました。この後の昼食に、アヒルと野菜のスープを作る予定でしたけど、もしよければ、あなたもどうですか?」
「えっ……?」
「僕の家は、この市場のすぐ裏手にあるんですよ。居候です。みやげ物店を営む夫婦の家に住んでいるんです」
「あの、でも、財布が…。だから、あたし、警察に行かないと」
「無駄ですよ。一度、盗まれたものは戻りません。いくら入っていたんですか?」
「五十ドルくらい」
そう言えば、まだ、ここに来て、お金を両替していない。この国では、米ドルも使えるって聞いていたから、そのままにしていたんだ。
「あの、あたし、ホテルに戻ります」
このチェンシーを信用していない訳じゃないけれど、お金もないまま街を歩く訳にはいかない。しかし、ふっと、気付いた。
「ホテルまで、ここから歩いて帰れますか?」
「はい。歩いて二十分です」
言ってから、チェンシーは、穏やかに微笑んだ。
「でも、あなたは歩いているうちに迷子になりますね。僕、大家さんにこのアヒルを渡してきます。そして、あなたをバイクでホテルまで送りますよ」
その申し出に、あたしはホッとした。良かった!
高志さんは、警察に連れて行かれたし、頼れる人と言えば、ホテルの従業員の人達だけだもの。
ホテルに着くと、あたしはチェンシーに呟いていた。
ロビーのカフェテラスに腰を下ろして、小声で尋ねていた。
「あの…、日本人の女性が亡くなった事件のことは知っていますか? 最初は事故としてニュースが流れたんですけど」
すると、チェンシーは、流暢な日本語で答えたの。
「ああ、街で噂になっていましたよ。カバンごと奪われていたようですね。この国では夜道で女性が一人で薄暗い路地を歩くことはありません。おそらく、彼女は油断したのでしょう。いつも見張られているから安心だと」
「見張られている?」
「ええ、あなたにも政府の公安官が常に見張っているはずですよ。外国の要人は、常に、あいつらに監視されているんです」
「ちょっと待って、どういうこと!」
「公安警察ですよ。外国人だけじゃなく、反政府思想を持つ国民やその周辺を、いつだって探っています。もちろん、単なる観光客全員のことを監視したりません。でも、あなたは、あの樋口製薬の関係者だから、その行動をすべて見張られているのでしょうね」
「ど、どうして! どういうこと?」
ああ、思い出した!
高志さんの別荘も、ガッツリ見張られていたっけ。
チェンシーは、黒ぶちの眼鏡の奥から、じっとこっちを見つめながら言ったわ。
「生物多様性条約って、ご存知ありませんか? この国の生物資源によって得た利益の一部を国に還元するように、この国の政府は樋口製薬に通達しているんです」
チェンシーの話を要約すると、こういうことだった。
樋口製薬は、二年前、この国の国境沿いの山岳地帯に生える、センナという名前の草の成分から、小児がんの進行を抑制する物質を作り出すことに成功したそうだ。
そして、その製品は、おそらく、もうすぐ日本での使用の認証許可が出るだろう。
その場合、それによって得た利益の15%を、この国の政府に還元するように、政府は樋口製薬に通達しているけれど、会社は、山岳地帯の人民に直接、利益を還元することを望んでいるという。
ああ、なんだか、突然、難しい話になってきちゃった。
「だから、樋口製薬の御子息はもちろん、その社員の動きも、常に監視しています。何か不審な動きがあれば、公安警察はただちに動き出します」
「ちょ、ちょっと待って…」
あたしは、整理整頓するために聞いてみた。
「じゃぁ、志奈子さんも、公安に見張られていたのに、何者かによって殺されたの? まさか、公安警察とやらが志奈子さんを殺したんじゃ…」
「さぁ。それはどうでしようね。公安警察だって、百パーセント、24時間、ターゲットの側についている訳じゃありませんよ。サッカーの試合に熱中していたなら、あいつらも、仕事は忘れます」
チェンシー的には、志奈子さんの死は、いまいち興味のないことらしい。
彼は、ちょっと驚くくらい熱心に、センナという草の話を続けているんだ。
あたしも、暇だから、その話に耳を傾けていく。
「そのセンナの草の効能を日本人に伝えたのは、少数民族である彼らです。そして、山岳で彼らが農業をすることで、その草の周辺の自然環境も保たれています。樋口製薬としては、欲深い政府ではなく、その思慮深い山岳地帯の人たちと協力したいと思っているのです。学資を援助したり、その土地に病院や図書館を作るといったプランを持っているようですが、政府は、そんなことを望んでいません」
政府の高官たちにとっては、山岳地帯の生活が潤うことより、自分たちの利益を増やしたい。
「15%の利益を還元したところで、その金は、軍事費用や高官たちの豪遊費用として消えていくことが目に見えています。だから、樋口製薬は、それをやんわりと拒んだ。でも、そうすると、センナの輸出を拒否すると脅してくる。政府の高官は、狡猾な脅迫者のようなものですよ」
そう言って、少し軽蔑したように笑う。
「でも、樋口製薬の重役だって、狡猾だ。だから、一人の高官に賄賂を贈るという形で、この問題を今のところは、うやむやにしています。この国の政府は腐敗していますからね。賄賂をつかませることで、しばらくは時間稼ぎをすることも可能なんですよ」
「はぁ…。なるほど」
ていうか、さっきから、センナっていう名前を何度も聞いたけれど、それって、どこかで聞いたような名前だわ。
(あーーーーーーっ! 同じだ!)
高志さんの別荘のメイドの名前も、センナだったような気がする。
日本で言うところの、桜とかキクみたいなもんなのかなぁ。やはり、草花の名前を女の子に付けるというのは万国共通のことなのかしら。
「まぁ、その薬が認可されてからが大変ですね。ハイエナのように、この国の高官たちは、樋口製薬から利益をむさぼるに違いない」
「はぁ…。そうですか?」
話を聞きながら、ふと、不思議に思ってきいてみた。
「チェンシーさんって、ホテルの従業員なのに、樋口製薬に関して、すいぶん詳しいんですね」
「実は、二年前までは、樋口製薬で通訳をしていましたから。志奈子さんが来るまではね。彼女のせいで、僕は職を失いました」
ちょっと言葉に棘があった。それが気になったけれど、そんなあたしを見透かすように、チェンシーが告げた。
「でも、そういう理由では殺したりしませんよ」
「はは…。そ、そうですよね」
一瞬、チェンシーの顔つきが険しくなったのを、あたしは見逃さなかった。何か、ふとしたはずみに迫力みたいなものが滲み出る。
年は、多分、25歳ぐらいだろうなぁ。でも、この人は、すごく苦労した人なんじゃないかなぁっていう気がした。
右腕には、ひどいヤケドの跡が残っている。
それに、顔にも、うっすらと無数の傷があった。そして、よく見たら、左手の人差し指が、スポンとちぎれている。
あたしの視線に気付いたのか、チェンシーは、自分から説明していた。
「これは、子供の頃、内戦があった時、負傷したんです」
「内戦?」
「ええ、ほんの20年前のことです。僕は、まだ七歳でした。今の政権になる前は、アーガル族の王族がこの国をおさめていたんですが、今は、ダーナ族系の軍人たちが統治しています。何も、知らないまま、この国にいらっしゃったんですか?」
「はぁ…。すみません」
地球の歩き方の本すら読まなかったわ。
「この国では、民族同士の殺戮が何度も繰り返されてきた歴史があるんです。それぞれの民族による神がいますからね。大変ですよ」
言いながら、チェンシーは目を細めた。
「だけど、三千年前は、ひとつの神しか存在しなかった…。その頃は、何の争いもなかったのに…。ジャングルの奥に眠る古代遺跡は、もう御覧になりましたか?」
「いいえ。まだ何も…」
何しろ、案内をしていくれる筈の美里は、バンコクで足止めされているし、高志さんは、警察に捕まったし、どうすりゃいいの?
(つーか、高志さん、どうなったんだろう?)

あたしは、チェンシーとしばらく話した後、一人で、昼食をとって、それから後は、ホテル周辺の雑貨店を見回ってから、ホテルの中庭で、ぼんやりしていた。
何だか、ここって、日本と時間の流れ方や空気が違うんだよなぁ。
平日の真昼間でも、小学生くらいの男の子が観光客相手に絵葉書を売っている。
小さな女の子は、裸足で花を売り歩いている。
少し、狭い路地に入ると、路上で男たちが、中国の将棋のようなゲームに熱中している。
あたしは、ホテルの図書室にあった本を手にとって、一気に読んだわ。
それは、この国を訪れた戦場カメラマンの旅行記。
『花の瞳』
そういうロマンチックなタイトルの本なのに、写真には、たくさんの死体の写真が掲載されていて驚いた。
二十年前、二つの大きな民族が対立して、結局は、ダーナ族系の人達が勝ったらしい。
その後、負けたアーガル族は、全員、思想改革キャンプに送られて、強制労働をさせられたそうだ。
二つの民族には、ある特徴がある。
ダーナ族の人達は、鼻が少し低くて、ガッシリとした体つきをしていて、アーガル族は、鼻筋が綺麗で、背も高くて、どこか優美だ。
そして、その他の細かいいろんな少数民族たちもまた、各民族ごとに、昔から伝えられてきた文化や習慣を守って生きてきたけれど、今は、ダーナ族の言うままに生活している。
戦争前に、都市部で裕福に暮らしていた者も、ダーナ族から、財産を取り上げられて、貧しい土地へと強制的に移動させられる。
小さな子供も、容赦なく働かされる。
そうして、ダーナ族に永遠の忠誠を尽くすように教育される。
しかし、元々、この国の中心にいたのはアーガル族だ。そのアーガル族の頂点にいた王族たちの多くは、今は、海外に逃亡している。
王家の直系に当たるナマステラ王子は、20年前に、国境地帯の川で敵軍に殺されて亡くなったらしい。
しかし、アーガル族の多くは、王子が、今もどこかで生きていると信じているという。
「へーえ、何だか、漫画や映画みたいな世界よね…」
あたしは、その本を読みつつ、ふっと独り言を呟いていた。
「二つの民族ね…」
背が高くて、鼻筋が綺麗っていうと、あのセンナはアーガル族よね。
容姿以外にも、アーガル族は、装飾的なセンスに優れていて、どこかフランス人っぽい雰囲気を漂わせているって、本に書いてあったわ。
ダーナ族は、実質一筋みたいな感じで、どこか無骨で無粋なところがあるらしい。
まぁ、もちろん、それは、日本人カメラマンから見た印象なんだけどね。
ちなみに、現在、この国で、収入のいい、良い仕事に優先的につけるのは、ダーナ族。
高級ホテルのフロントマンや、空港や、外国資本の会社に入っているのは、おおむね、ダーナ族。
清掃係りや、雑用の仕事をしているのは、アーガル族が多い。
ということは、チェンシーは、ダーナ族?
でも、その割に、政府に対して辛らつなコメントをしていたよね。
んじゃ、もしかして、その他の、少数民族ってやつなのかな?
どうしても気になったので、あたしは、支配人の藤堂さんに、何気なく聞いてみたら、彼は、すんなりと答えてくれた。
「ああ、チェンシーは、山岳地帯出身ですよ。樋口製薬が買い取っている山を知り尽くしている民族です。昔は、山で生きていたんですけど、今は、彼らも、街に出て、いろんな教育を受けるようになったんでしょうね。彼が、何か?」
「あっ、いえ…」
そんなことより、確認しなくちゃ。
「あの、まだ、連絡はありませんか? あたしに、何か伝言はありませんか?」
あたしは、美里のことを聞いたつもりだった。
でも、藤堂さんは、心得ておりますというふうに頷いてこう言ったの。
「ああ、もちろんございますよ。高志坊ちゃんから、伝言です。至急、会いたいとおっしゃっていました。五分前に電話がありました。すぐ、電話なさるといいですよ。何か、急いでおられるようでしたから」
「えっ…?」
どうしたんだろう。
でも、ホテルに電話できるってことは、警察署から出られたってことなんだ!

高志さんに電話をかけると、彼は言った。
「話があるんだけど、そっちに行ってもいいかな? うちで夕食でもいいけど、今夜は、センナは来ないし、それに、家の中は、とても住めたもんじゃないしさ」
「えっ?」
言っている意味が分からなかった。
「まっ、とにかく、オレも、そこに泊まるから、ホテルのロビーで待ってて。15分で着くからさ」
そう告げて、彼はやって来た。
だけど、あたしは、顔を見た瞬間、悲鳴をあげていた。
「な、なんですか! その顔は! ひどい…」
唇の端が腫れ上がっている。
出迎えた藤堂さんも、怯えたように高志さんの顔を見ている。
「信じられません。この国の役人たちが、外国人にこんな無礼な真似をするなんて…」
藤堂さん的に、相当、ショックだったらしい。
高志さんは、そんな藤動さんの肩を叩いていた。
「まぁな。仮に、買春で捕まっても、賄賂さえ払えば、チャラにしてもらえるような国だ。ヘンな話、ビザがなくったって、賄賂を渡せば通してくれるような職員だっている。だが、最近、マジで、この国はヤバイらしい。財政難で四苦八苦している」
「ええ、分かりますよ。税率はどんどん高くなりますし、それに、盗難事件も増えております。うちのホテルの従業員も、ホテルの備品を盗んで売りさばく始末ですから。でも、だからこそ、あなたのような方には手など出さないはずですが…」
樋口製薬のご子息。
その彼が、拘束されて、取調べ中に殴られた…。
「とにかく、ご無事で何よりです。部屋は、もちろん用意しておきました」
そう言って、支配人さんは自分の仕事に戻っていく。
あたしは、高志さんに尋ねずにいられなかった。
「あの、任意の取調べじゃないんですか? 正式に捜査令状とかあるんですか?」
「さぁね。何しろ、いきなり、おまえが殺したんだろうって怒鳴られたよ。目撃者がいるって言われて」
「目撃者?」
「ああ、でも、その目撃者っていうのも怪しいんだよな。オレって、単にはめられただけっていう気がする。何しろ、志奈子さんが殺された時刻には、オレは、ずっと家にいたんだよ。センナも横にいた」
「じゃぁ、センナさんにアリバイを証明してもらったらいいじゃないですか?」
「ああ、言ったよ。でも、あいつらは、ニヤニヤしてこう言った」
うんざりしたように肩をすくめる。
「ここから出してもらいたければ、誠意を見せろってね」
「誠意?」
「ストレートに言うと、賄賂。警官たちに、お小遣いを渡せば出してもらえるってこと。どうも、オレ以外にも、五人いる研究所のスタッフたちも一通り、取り調べられて、金を要求されたようだね。仕方ないから、所長が本社にかけあって、保釈金をかき集めて出したらしい。ああ、もう、めんどくせぇ国だよな」
「ひどい! やってることが無茶苦茶だわ!」
「ああ、そうだな。でも、まぁ、警官たちが要求した金って、五万円程度なんたけどね。前に、麻薬所持の疑いをふっかけられた時は、一万円、払ったら容疑が晴れた…」
言いながら、高志さんは、あたしを、ホテルのカフェの椅子に座らせる。
「問題は、そんなことじゃないんだよ」
綺麗な顔なのに、口元に痣が残っているせいで、見るからに痛々しい。
「所長の話によると、志奈子さんは、この国に派遣している、うちの新薬開発チームの大事なデータを盗んでいたらしいんだよな。この国で採れる植物が、難病の治療に役立つことを発見して、それを製品化するために研究しているんだけど、その研究データを、この国の高官たちに横流ししていたようだ」
「えっ、それって犯罪じゃない!」
「ああ、でも、所長は、意図的に放置していたらしい」
「どうして?」
「嘘のデータを志奈子さんに流させておけば、本当のデータは守れるだろ? この国の奴らも、それで安心する」
「んじゃ、志奈子さんは、あなた達を裏切りつつ、この国の人達のことも騙す役をやっていたってことよね。もしかして、嘘のデータだということがバレたせいで殺されたの?」
「所長は、その可能性は薄いって言っていた。だって、それは、実際に製品にして治験を重ねない限りは、効果があるかないかなんてことは分からないからね。製品化するにしても、実際には、この国の中で作ることは難しい。高官たちも、データを親しくしている第三国に売るつもりで聞き出していたんだと思うよ」
「でも、嘘がバレていないなら、志奈子さんに死なれると困るんじゃないの? 樋口製薬の所長も、この国の高官も、どっちにしても彼女を利用しているんだもの」
産業スパイ。
そういうのって、本当にいたのね…。
あの志奈子さんが、そういうことをしていたなんて。
高志さんの父親の会社に勤めながら、平気で裏切って、そして、何食わぬ顔をして、高志さんと付き合う。わー、なんて図々しい人なんだろう。
そう言えば、彼女、婚約者がいるって言っていたよね。
志奈子さんって、いろんな人を騙して生きているんだなぁ。あたしには、そういう人って理解できない。
「まぁね。実は、志奈子さんが、研究データをこっそり盗めるほど、うちの研究所のセキュリティーは甘くないんだよ。もう、最初っから、産業スパイごっこをしそうな人にわざと、偽の情報を見せることで、やり過ごしているって感じ。だから、それは、いいんだけど…」
ハーッと、溜め息をついている。
「この国の政府や警察以外の何者かが、志奈子さんを追っていたんじゃないかっていう気がするんだ」
「ん? どういうことですか?」
「警察も、一応、マジで志奈子さんの殺人事件を調べているらしくて、オレが金を払って釈放してもらった後に聞いたんだけど、志奈子さんは、何度も、留守中、自宅のアパートを荒らされていたそうだよ」
「泥棒ですか? でも、それって、この国ではよくあるんじゃないの?」
あたしも、市場で、さっそく財布を盗まれたもん。
「ああ、そうだよな。警察もそう思って、たいして気にしていなかった。だけど、志奈子さんの部屋に入った泥棒は、金目のもの…、例えば、ノートパソコンや高級な壷なんかに手を出していない。盗むというより、何かを探し回って、部屋から出て行ったっていう感じだったそうだよ」
高志さんは、きゅっと眉根を寄せている。
「つーか、オレが、さっき、うちに帰ったら、部屋中が荒らされていたんだ。もう、部屋中、引っくり返して立ち去っていたんだ。もう、寝る場所もないよ。台所の冷蔵庫の中までかき混ぜられていた」
「それって! 留守の間にドロボーが入ったってことですよね」
「泥棒だったら、いいんだけどね」
注文していたケーキをつついて、彼は、唇を尖らせた。
「どうも、いわゆる普通の盗人じゃない気がする。オレの家の中にある貴重品は、何も無くなっていない。多分、志奈子さんを殺した奴と何か関係あるんだろうな。あっ、志奈子さんは事故死じゃなくて他殺。毒殺されたってことらしいよ。検視したら体内から微量の毒がみつかったそうだ」
「毒殺…?」
夜道を歩く女性を毒殺? どうやって?
「ああ、毒殺。首筋に注射針をブスっと刺して、そのまま立ち去ると、はい、おしまい。でもさぁ、そんなことをするってことになると、単なる泥棒じゃないよな。でも、カバンは無くなっているし、上着も剥ぎ取られていたようだよ。でも、レイプされたりした形跡はいっさいない。それに、その上着も、橋の上にひっかけられていたようだ。ただし、ポケットは裏返されていたらしい。これってどういうことだか分かる?」
「あの…、志奈子さんが持っている筈の何かを探していたってことでしょうか?」
あたしは、ドキドキしていた。
どうしよう。
な、なんか、この国に来て以来、どんどんシリアスな事態に巻き込まれていく。
美里と呑気にバカンス。
そのつもりで、ここに来たのに。
火曜サスペンス劇場みたいなことになっている。
「あの…、思うんですけど、なんで、高志さんも美里も、この国にわざわざ来るんですか? ハワイやサイパンにも別荘があるはずだし、それに、ここって、こんなふうに物騒なところなのに…」
「あっ、もしかして、ユーミン、この国に来たことを後悔してる?」
「……」
図星だった。
ていうか、女子大生がエンジョイするような国じゃないと思うんだ。
「でも、オレ、好きなんだよなぁ。国営デパートは、いつも空調が切れているし、エスカレータも止まったままだし、それに、年中、唐突に停電するような国だけどね。そういう野蛮なところがいいよ。この国に来るたびに、背筋が伸びるんだ。ねぇ、もう、市場とか行った?」
「行きましたよ」
「そっか。あそこ、カエルも亀も食料として売ってるだろ? 盲目の老女とかが、買い物客に金をせびったり、小さな子供が売り子として働いていたり、そういうガサガサした空気が好きなんだよなぁ。それに、だいたいさぁ、ここ、中心都市なのに信号がない場所が多いだろ! 歩道橋もないから、道を渡る時は、命がけだよ。まぁ、現地の人は、のんびり歩いて渡っていると、バイクや車も、不思議と人を轢くこともないし。そういう混沌とした中でも、奇妙に調和しているところがいいんだよな」
高志さんは、本当に面白そうに笑っている。
この人って、本当に飄々としている人だ。
警察署で殴られたこととか、たいしてトラウマにはなっていないらしい。
不意に、スッと立ち上がったの。
「そうだ! ユーミン、デートしよう」
「はぁ?」
なぜ、そうなるかな?




続きは後日更新します



 

KISS・KISS

 
電話が鳴った。夜中の2時にだ。当然、僕は寝ていた。
「ふぁい、もしもし…」
誰がかけてきたのかは分かっている。ミッコさんだ。
『もしもし! わたし! 大変なの! あのね、ゲロ吐いたの! もう死んじゃいそうなの!』
「・・・・・・・」
元気そうじゃんか。
「すぐ来て! ロフトの前のバス停のベンチに座って待ってるから、ね!」
ミッコさんは、自分の言いたいことだけ告げると、さっさと電話を切った。

                               ☆

ばぁか、野朗!
ふざけんなよ!
僕は、あんたの、おかかえ運転手じゃないんだ。
早く、車持ちのダンナをもらえよ。
もう、25歳過ぎてんだろ。
遊びほうけてないで、とっとと嫁に行け!

                                ☆

ミッコさんの顔を見るまでは、そう怒鳴るつもりだった。

                                ☆

車から降りた。
途端に、ミッコさんが飛びついてきた。
「モッくん! ねぇ、助けて! ニーヒャが、鼻水タラタラで、身体ガクガクで…。死んじゃう、死んじゃう!」
「は…?」
ミッコさんが死にそうなんじゃなかったのかぁ。
「…で、ニーヒャって何ですかぁ?」
ロシア人の男でも行き倒れているのかと思った。
「これよ!」
ニャー。
いきなり、ミッコさんが、ダンボールの箱を差し出した。ギョッとした。
「えっ…」
猫が、その中にいたのだ。

                                ☆

「ヒドイのよぉ。タクシーはニーヒャを乗せてくんないんだからぁ!」
「・・・そうでしょうね」
僕も、乗せたくなかった。
灰色のノラ猫だ。しかも病気持ちときたもんだ。

                                ☆

「もう、頭にきたわ!」
ミッコさんは、カンカンだった。
どこの動物病院も診てくれなかったのだ。
当たり前だ。
こんな夜中に、だれが診るもんか。
「あのね…」
僕は、運転しながら溜め息をついていく。
「・・・なにも泣くことはないでしょ?」

                                ☆

これは誉め過ぎかもしれないけれど。
ミッコさんは、時々、『プリティーウーマン』の、ジュリアロバーツに似ている。
少なくとも。
後姿はソックリだ。

                                ☆

「ふうん…。モッくんって、獣医さんみたい」
ミッコさんが、ジッと僕を見てる。
「僕、田舎にいた頃、どーぶつ好きで、よく飼ってましたからね…」
こんなのには慣れているのだ。
「…ミッコさん、この猫、どーすんですか? このマンションは、猫なんて飼えませんよぉ」
「会社の同僚にあげるから、いいの」
「ふうん…」
僕は、あくびしながら言った。
「明日、会社あるんでしょ? 自分の部屋に戻って寝たらどーですかぁ?」
ミッコさんは、隣の住人だった。
1年前。
僕の水玉模様のトランクスが、風に吹かれて隣のベランダに飛び込んだ。
それ以来、僕は、この人に振りまわされている。
ミッコさんは、僕を男として見ない。
その証拠に、こうだ。
「わたし? 明日、会社休むわ。生理休暇もらっちゃうから平気よ」

                               ☆

コーヒーを飲みながら、ミッコさんが言った。
「…もっくんの部屋って、いつ見てもキレイよね。彼女とか、掃除しに来てくれるの?」
「いいえ、彼女は今のところいません。 おふくろが、月に一度来て、掃除していきますけど…」
掃除くらい、自分で出来る。
「ふうん…。過保護なんだぁ」
「・・・・・・・」
その台詞、そっくり返してやりたい。
一人暮らしといっても、ミッコさんの実家は、すぐ近くにあるのだ。
彼女は、金持ちのワガママ娘だ。
「あーーーーっ!」
いきなり大声。
「な、なんなんですか!」
今、何時だと思ってんだよ。わめくなよ…。
「どうしよう、忘れてた!」
「いったい何を忘れたんですか?」
ミッコさんは、シャネルのハンドバックから手帳を取り出して答えた。
「ヤダ…。明日、お見合いしなくちゃ…」

                               ☆

何秒くらいたったんだろう。
しばらくの間、僕は言葉を失っていた。

                               ☆

「ねぇ、モッくん。冷蔵庫のプリン、食べてもいーい?」
「いいけど、それ、賞味期限、切れてますよ」
僕は嘘をついた。
ミッコさんは、残念そうに唇を尖らせた。
「チェッ! つまんないの」
でも、すぐに気を取り直した。
そして、パッと立ち上がった。
「あっ、そうだ! わたしの部屋にジャイアントコーンがあったんだ!」

                                ☆

アイスクリームを舐めながら言った。
「モッくんは、どう?」
「僕は、冷たいもの、苦手なんです」
虫歯にしみるから、イヤなのだ。
「…ふうん。ねぇねぇ、モッくん、明日、授業、出れる? 寝なくていいの?」
ミッコさんが、ニーヒャの顔を眺めている。
ニーヒャは、クウクウ寝ていた。
「別に、いいですよ」
休んだって、どーってことない。
「いいわね、大学生って…」
うらやましそうな声だった。
「モッくんって、20になったばかりでしょ? 若いっていいわよね」
少し、表情が曇った。
「…わたしなんて、明後日で26歳よ」
「・・・・・・・」
夜更かしは、お肌に悪いですよ。
言いかけて、やめた。

                               ☆

僕は言った。
「ミッコさん、お見合いするんだったら、ちょっとスイミンした方がいいんじゃないですかぁ?」
「いいわよ」
ミッコさんは、ツンと呟いた。
「あのね、わたし、パパに言われて、仕方なくお見合いするの。25歳越えたら結婚するって約束しちゃったから…」
「…………」
僕は、前から不思議に思っていたことを尋ねた。
「ミッコさんって、好きな人いるんですか?」
僕の見たところ…。
彼氏も、片思いの相手もいないようなのだ。
「…スキな人?」
ミッコさんは、ゆっくり微笑んだ。
「そうね。昔は恋人がいたわよ」

                               ☆

昔は、恋人がいた・・・。
僕は、ミッコさんの顔をジッと見返した。

                               ☆

ミッコさんが、なつかしそうに言った。
「その人、ニーヒャって渾名だったの」
「ニーヒャ?」
猫に付けたのと同じ。
「西平くんっていうのよ。大学の仲間たち、みんな彼のこと、ニーヒャって呼んだわ」
ミッコさんは、小さく笑った。
「ニーヒャって、痩せてて背が高くて、けっこう寡黙そうに見えるけど、冗談を言うのが上手くって、たのしい人だったの」
「で、その人とは…?」
なぜ、今は付き合ってないのだろう。
僕がそう尋ねる前に答えてくれた。
「彼ね、死んだの。事故で」

                               ☆

「わたしね、この4年間、ニーヒャみたいな人を探したけれど、みんなダメなの。わたしのこと、本当に思ってくれる人なんていないのよ」
それは、かなしい呟きだった。

                               ☆

ミッコさんは、わりと美人だ。
男にモテない筈がない。
少し(かなり)ワガママだけれど…。
けっこう優しいところがある。

                               ☆

「ミッコさん。ニーヒャって人と同じ人を探そうとしたってダメですよ」
思い出は、ガンガン美化されていく。
昔の恋ほど美しいものはない。
ニーヒャと比較すると、他の男が馬鹿に見えてしまうに違いない。
「理想を高く持ち過ぎない方がいいですよ」
僕がそう言うと、ミッコさんは怒った。
「なによ! パパと同じこと言わないでよ」

                               ☆

「わたしは、ニーヒャと同じ人じゃないとイヤだって言ってるんじゃないわ! わたしは、ニーヒャみたいに、本当にわたしのことを分かってくれる人を求めているだけ」
ミッコさんは訴え続けた。
「ただ単に、あたしのことをスキな人なら、いっくらでも作れるわよ。でも、そんなのいらないの! 安っぽい愛情や優しさなんていらない! わたしは、わたしのことを本気で考えて守ってくれる人が欲しいの。ただ、それだけよ!」

                               ☆

ニーヒャって奴は、ミッコさんの言うとおり立派な奴だったんだろうか。
だとしたら、スゴイ。
僕には、きっと真似できないよな…。
だって、僕は優しくない。
それに、僕は、ニーヒャのように冗談を言うのが上手い奴じゃない。
どっちかって言うと、皮肉を言う方が得意だ。
そして…。
「僕は、誰かを守れるような大人じゃない」

                               ☆

付けっ放しのTVから、お昼の番組の歌が聞こえてきた。
ニャー。
僕は、猫に顔を舐められてハッとなった。
「ミッコさん!」
気が付くと、彼女が消えていた。

                               ☆

モッくん…。
わたし、これからお見合いしに行ってきまーす。
ニーヒャをよろしくね!

                               ☆

僕は、バスルームの鏡を見て、唖然となった。
「…こんなところに、ルージュの伝言を残すなよ!」
なんてことしやがる。
あんの、馬鹿野郎…。

                               ☆

僕は、鏡をゴシゴシ拭った。
そして、いろんなことを考えた。
卒業っていう映画。
花嫁を奪って逃げたホフマンは…。
あの後、一体どーなったんだろう?
バスに乗った二人は…?
しあわせになれたんだろうか?

                               ☆

ニャー。
僕の手のひらを舐める。
僕は、ニーヒャと一緒にTVを見続けた。
…くだらなかった。

                               ☆

『やっだぁ! モッくんって、小さな車に乗ってるのねぇ! かぁいい! 白いカブト虫みたい! わたし、こういうのとてもスキよ』

                               ☆

なぜか、僕は、ミッコさんの言葉を、次々と思い出した。

                               ☆

『…ねぇ、モッくん。わたし、しあわせになれると思う? ねぇ、ねぇ…』

何かが、僕の中で叫んでいた。
もう、それは…。
セーブできないものだった。

                               ☆

西日が差し込んできた。
携帯電話が鳴った。
RRRRRRRRR RRRRRRR。
僕を呼んでいた。
僕は、携帯に手を伸ばすと、なつかしい声を聴いた。

                               ☆

『もしもし! わたし!』
ひどく焦った声だった。
ミッコさんは、機関銃のように喋り続けた。

                               ☆

『すぐ来て! 大変なの! もう、ゲロ吐きそうなの! 死んじゃいそうなの! 最低なの! 早く逃げなくちゃ、わたし、アルマーニのスーツを着たゴリラにやられちゃう! すぐ来て! モッくん! お願い! わたしね、今ね、北野のレピにいるの。トイレの中で非難しているから。ねっ! 早く、助けに来てね!』
…異人館の立ち並ぶ、あの、高級レストランで、いったい何をやっているんだろう?
ゴリラ?
なんなんだ、それは…?

                               ☆

車を止めた。
僕は、ジーパンとTシャツという格好で店に入ると、当然、呼び止められた。
「…あの、お客さま?」
僕は、そいつを振り払って言った。
「トイレはどこだよ!」

                               ☆

やたらゴージャスなドアを叩いた。
「ミッコさん!」
「モッくん!」
ダーンッと、ドアが開く。
と、同時に、僕は抱きつかれていた。

                                ☆

「よかった! 来てくれたのね!」
ミッコさんは、本気で怯えた顔をしている。
よっぽどコワイ目に遭ったらしい…。
「わたし、このまま、あのゴリラとケッコンするのかと思うと、怖くてこわくて…」
「…ゴリラ? なんですか?」
僕は、キョトンとして尋ねた。

                               ☆

『ゴリラ』
それは、ミッコさんの見合い相手のことだった。
29歳の青年実業家だ。
ミッコさんの父親の取引先の息子で。
3高には違いなかった。
でも、奴は、ゴリラにソックリだったらしい。

                               ☆

ミッコさんは、そいつと二人きりになった途端、身震いしたんだそうだ。
僕は、吹き出しそうになりながら、ミッコさんの話を聞いていた。
そして、安心した。

                               ☆

「…とにかく、気持ち悪いの。毛深いの。ヒゲが濃いの。でも、それだけならいいんだけど、性格がネチこくてイヤな奴なの。あいつ、自慢ばっかりするのよ」
ミッコさんは涙ぐんだ。
くやしそうだった。
「わたし、ほんと、気持ち悪くて、先刻、食べたフォアグラとキャビアを吐きそうになっちゃったわよ…」
「キャビア…?」
いいもん、食ってんだなぁ…。
「もったいないから、吐かない方がいいですよ」
僕は、咄嗟にそう呟いていた。
なにを言ってんだろう?
こんな時だっていうのに…。
まったく。
ミッコさんを見下ろして、僕は溜め息をついた。
そして、少し哀しくなった。

                               ☆

いつも、いつも…。
なぜ?
彼女に対して、こういうことしか言えないんだ?

                               ☆

僕は、深呼吸をした。
ミッコさんの顔を見つめていく。
そして、言った。
「とにかく、席に戻ってください」

                               ☆

相手がゴリラでも…。
このまま、放っておく訳にはいかないだろう?

                               ☆

ミッコさんが、急に大声を出した。
「い、いやよ!」
ブルッと首を振る。
「わたし、もう見合いなんてしない…」
訴えるように呟いた。
「…こんなのイヤだもの」

                               ☆

青ざめた顔は、すこし幼く見えた。
僕の目を見て囁く…。
「わたし、イヤなのよ。自分の気持ちを誤魔化して生きていくなんて出来ない…」
まっすぐな瞳。
ミッコさんは真剣だった。
キッパリと言ったのだ。
「わたし、本当に一緒に暮らしたい人と暮らすわ。誰に何て言われたって平気よ」
ゆっくり微笑んで言う。
「わたし、好きな人と暮らすから…」

                               ☆

ミッコさんが背伸びをした。
「…ニーヒャ、元気?」
僕の頬に手を伸ばしていく。
「ああ、元気ですよ」
ニャーニャー、うるさいくらいだ。
「…ほんと? ありがとう」
軽く、僕の頬にキスをした。
「わたし、とっても…、うれしいわ…」

                               ☆


その時、ノックの音がした。
ドアを開けると、外にゴリラがいた。
僕らは、ハッとして駆け出した。

                               ☆

「美佳子さん!」
ゴリラが、僕らを追いかけてくる。
僕とミッコさんは、手をつないだまま走った。
店中の奴等が、注目した。

                               ☆

車に乗って走り出す。
駆け抜けていく。
ボニー&クライドの気分だった。

                               ☆

僕は、アクセルを踏みながら尋ねた。
「これから、どこに行きます?」
「帰るのよ」
ミッコさんが笑った。
「ニーヒャに御飯、あげなくっちゃ」
言いながら、僕の横顔を見た。
「わたし、あの子をナイショで飼うわ。ニーヒャは誰にもあげない。だって、大好きなんだもん。手放せないわ…」
「…………」
なんだ、こりゃ?
バックミラーに映った自分の顔を見て笑った。
口紅の淡い色が、ほっぺたの上で光っている。
先刻、キスされたせいだ。
どうやら、僕は、完璧にイカレちゃったらしい。

                               ☆

僕は、こんなことを言っていた。
「キスしてもいいですか?」
我ながら間抜けな台詞だった。
でも、構うもんか…。
これから、いろいろとやっかいなことが起こるに違いない。
それでもいいと、思った。
「キス? あら、もちろんいいわよ」
ミッコさんが、クスクス笑いながら呟く。
「わたしも、そうしたいと思ってたの」
言いながら、真面目な顔になる。
「わたし、ずっと前から、あなたのこと好きだったみたい…」
「…今日は、僕達、気が合いますね」
僕は笑った。
信号が青に変わる瞬間に…。
「…僕は、あなたが好きでした…。たぶん最初から…」
僕は、素早くキスをした。

                               ☆

ニャー。
「ただいま、ニーヒャ」
ミッコさんが、ニーヒャを抱き上げる。
「坊やちゃん、元気にしてた?」
ニコニコ顔。
僕は、溜め息をつきながら言った。
「…そいつ、男じゃないよ。女だよ」
僕も、今、気付いたんだ…。
「え? ニーヒャって女の子なの?」
ミッコさんは、ジッとニーヒャを見た。
「へーえ、女の子だったんだぁ…」
目をパチクリさせている。

                               ☆

僕は、その表情を見て笑った。
「…そうだよ。女だよ」
そしたら、ニャーと鳴いた。
僕は、ニーヒャをつかまえる。
おまえ、女だよな?
「なっ…、ニーヒャ」
そして、2度目のキスをした。             



                                                おわり





※この短編は、昔、ワタシが雑誌に掲載したものです。加筆訂正ました。



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